多和田葉子『百年の散歩』新潮社

 この本では、実際に存在する通りの名を冠した章の中で、語り手が思ったこと、感じたこと、連想したことが綴られていきます。

 「芸術家は演出家であり、ほんの少し嘘つきだ。そういう嘘ばかりが気になって何も行動できないわたしは世の中の役に立たない人間なのだ。」(「コルヴィッツ通り」p.190)

 読み進めながら、私はその章題に特定の通りの名前がなぜ採られているのか必然性のようなものが分からないでいました。地理としての知識、その場所がたどった歴史、ベルリンに住む人(あるいは住まない人)にとっての象徴、そういったものを知らないがためかもしれないと思っていました。でも、

 「悟りだって、意味を洗い落とせばデザインになってしまう。でもデザインになったからといって意味が消え去るわけじゃない。」(「トゥホルスキー通り」p.200)

 語り手の眼前に突如あらわれた「悟」という漢字。それがプリントされたリュックを背負う青年はきっと「悟る」というのがどういうことか分からずにいると語り手は判断しています。

 「何かを買うのが詐欺との絶え間ない戦いであるなら、何も買わずに暮らしたい。」(「リヒャルト・ワーグナー通り」p.149)

 この本で小説として私の目の前に表れているものは、何も分からない私にとってデザインのようなものかもしれない。章の題としてとられている通りの名前の「意味」が分からなくても、読んで受け取るものの中にはその痕跡が残っているかもしれない。そんな風に考えていくと、この本のタイトルが示すものは何なのだろうと思えてきます。

 「会いたい気持ちを十倍、二十倍、四十倍に薄めていって、会わなくても会ったと同じ状態まで心を持って行くなんて。それなら失望する心配はないから。」(「マヤコフスキーリング」p.235)

 何かを薄めて無いことと同じように感じることは、散歩と通じているのでしょうか。

 語り手はどの話数でも「あの人」を待っています。待つということと散歩は共通するのだろうかと考えます。散歩自体にはきっと目的はない。どこかへの移動でもなく、何かを見ることを目的ともしていない。結果として移動や見物が発生するとしても、そこへの志向は曖昧な気がします。

 一方、待つことには対象がある。「あの人」のように。では、待つことの手段として散歩が使われる場合、どうなるのか。

 構成から私は最初必然性を探していました。でも、デザインとしてしか構成を受けとれない私は、散歩が生じさせる偶然を受けとるように語り手が伝えてくれる考えや思い、連想を受けとるしかないのだと思います。それが、本当に伝わるべきものから多くのことが洗い落とされた結果にしかならないとしても。

 「出逢ったかもしれない人たち、親友になったかもしれない人たちで町はいっぱいだ。」(「マヤコフスキーリング」p.227)