幸田文『季節のかたみ』講談社文庫

 「やはりこの人、ちょいとしたひとだったのかもしれません。でも私の好きなタイプではありません。」(「ドッコイショ」p.233)

 この本を読みながら私が考えていたのは、著者の文章は好きなタイプに属するということでした。

 「誰にかかされたのでもなく、自分から感じた恥は、素直にそしていちばん深く、一生の覚えになるのではないでしょうか。」(「松之山の地滑り」p.160)

 この随筆集には、自分から感じた恥が随所に顔をのぞかせています。そしてその正直さを私は好みます。

 正直、というものにも種類があって赤裸々に全てを語るものもそう呼ばれうると思います。でも、何でもかんでも開けっぴろげに綴ってあるもの、抑制の効いていないものから感じるのは潔さや誠実さとはまた別のものです。著者の文章から感じる正直さは潔さを伴っています。

 「正直なところ、あの人とあの原っぱとを組合わせた季感には、私も相当なショックを受けたのだと思います。だから先ず自分が好幸性でその後遺症から逃れたいのが本心です。」(「季節の楽しみ」p.196)

 多分、正直に書かれている部分とは別に書いてしまえば品を損なうような箇所は書かずに置かれている。その取捨選択が誠実さを感じさせているように思います。

 「昔びいきの今けなしで、どうこういうほど彼女は未熟ではないのです。」(「里芋と縁台」p.243)

 取捨選択と言えば、「墨つぼ」と題された文章に次のようにあります。

 「糸は点から点へ打つ、直線のしるしづけである。その直線に、毛筋ほどのふくらみや削りが許されるという」(「墨つぼ」p.15)

 随筆の題材として採られているものは点のようです。読んでいる内は、どうしてそれについて書かれているのかはっきりとはしてこない。読みおわった後で点と点をつなぐ直線、つまり著者の見方でもいうようなものが見えてくる。

 この点の選び方、そして直線に許されているふくらみや削りがこの本の魅力だと思います。

 できるなら、私もこういった文章を書きたいです。最初はどうしてその話をしているのか分からない、あるいはどうしてその部分を引用しているのか分からなくても、読んでいった果てにそれらをつなぐ線が見えてくる。見えなくとも感じられはする。でも、できない。

 自分がいいなと思えるものを出来る人がいて、でも自分はできないことを痛感するとき、次の箇所を引用したくなります。

 「自分は駄目なんだ、でも誰かどこかに、歌のうたえる子はいるんだ、と思うそのせつなさ、淋しさ、身にしみました。」(「いまここにはなくて」p.116)