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森谷明子『春や春』光文社

 「須崎さん、俳句は文学ではありません」(p.23)

 登場人物である女子高生たちは俳句甲子園を目指します。といっても、文学少女の集まりではありません。顧問も俳句を詠まない英語教師。素人集団が一つの目標に向かってまっすぐに向き合い、誠実に取り組んでいく姿が描かれます。

 「この句は、子規の一生を知らなければ、輝かない。つまり句単体では鑑賞できないのです。それが独立した文学作品と言えるでしょうか」(p.36)

 ここでやり玉にあがっている句は、私の中で輝きました。それは、正岡子規がどのように生きて亡くなったか私がイメージを持っているためでしょうか。もしもそれらを知らなかったら鑑賞できないのでしょうか。

 『歌よみに与ふる書』という本のことを思い出します。

 「非文学的思想とは理窟の事に有之候。」(『歌よみに与ふる書岩波文庫 p.30)

 それは鑑賞ではなく感傷だ、などと否定されてしまえば、ぐうの音もでませんけれども、それ単体で独立して鑑賞できる作品はあるのだろうかと考えます。どんなものも、それを読む「わたし」がいなくては輝いて見えないのでは。

 先に引用した部分で否定されている正岡子規の句は次のようなものです。

 「いくたびも雪の深さを尋ねけり」(p.35)

 子規のことを知らない状態でこの歌に出会うことは、戻せない過去を望むようで無理ですが、自分で外を確認すればすぐに分かる積雪の度合いを人に尋ねなければいけない状態、それも何度も聞かなくてはいけないことをうかがわせる表現は詠んだ人に何らかの制限が課せられていることを伝えます。それが自分の知っている、したいことが自分の力ではどうすることもできない理由、そうですね例えば病気などでできないもどかしさと重なったとき、自分の中で鮮やかに再生される気持ちや情景があります。

 こう説明する言葉は理屈ですが、そうやって受け取った側の中で再生されるという事象は理屈を超えていると思います。

 私はこの本を読むまで俳句に興味がありませんでした。難しくてよく分からないという印象を持っていました。

 でも、何かに触れて心が動いた、それを形として留めたい、それも端的に最も直接表現しているようなもので。そんな衝動のようなものに応える器として俳句はとても魅力的に見えます。

 「井野は考えていることを整理して本当に表現したい言葉を見つけられるようになりさえすれば、すごく前途有望だと思うぞ」(p.130)

 感動を象ることへ注力する彼女たちの姿を読んでいると、瑞々しい気持ちになっていきます。

 

 「その先にね チャラになる瞬間がある

  悩んで わめいて 苦しんで もがき続けた数か月

  何もかも報われる瞬間があるの」(新川直司四月は君の嘘講談社 9巻)