北村薫『遠い唇』角川書店

 「本格ミステリとして考えた時、わたしがこの作品で語りたかったのは、そういうことです。」(p.205)

 『遠い唇』は短編集で「遠い唇」「しりとり」「パトラッシュ」「解釈」「続・二銭銅貨」「ゴースト」「ビスケット」の7話が収められています。

 上で引用したのは、全てが終わった後に付けられている「ビスケット」の解説の部分です。

 「わたし」は40歳になろうかという小説家。対談のゲストとして招かれた大学で事件に遭遇します。部屋の中に倒れていたその人が示していたダイイングメッセージ。彼女は旧知の名探偵に助けを求めます、というのが「ビスケット」のあらまし。

 「若い頃には、《自分もいつか四十になる》なんて、本当とは思えなかった。しかし、嘘ではない、嘘ではない。」(「ビスケット」p.145)

 「わたし」の年齢や過ぎ去った時間に言及されるのにはワケがあります。彼女や名探偵が北村さんの過去の作品の登場人物だからです。

 そして、北村さんが「ビスケット」で「語りたかった」ことはこの時間に関係しています。

 「あゆみが年を重ねただけではない。時代がそうなってしまった。」(p.205)

 たしかに「ビスケット」で描かれたように、探偵として凡人である「わたし」も時代のおかげで名探偵の推理をトレースすることができた。自分をはるかに超える存在と同じ視点で物事をたどることができた、と言えると思います。でも、それは名探偵の示した言葉によってフレームが指定されたから。

 「すべてが対象である」は「何も対象にはならない」の裏返しであることが多々あります。

 どこを見ればいいのか、対象を指定するきっかけに名探偵としての存在価値が残っている。人工知能の発達を背景に言われる人間との違い、人間の特長に関する議論が思い出されます。

 ここで私は少しズレたことを連想していました。作中、くだんのダイイングメッセージは携帯の写メにおさめられていました。その画像が人間の意図に関わらずネットワークに繋がるとしたら。「ビスケット」で鍵となったのは言葉でしたが、画像自体による検索や関連付もあります。だとしたら、探偵によるフレームの指定がなくても、起点があって犯人という終点のある過程、推理という道筋など関係のないところで真相は自動的に存在してしまう可能性もある。それは名探偵の存在意味自体を葬り去る事態なのでしょうか。

 「小説は自分の内面告白だ。不特定の読者に向かって―わたしを分かってくれる、もう一人のわたしに向かって書くものだ。」(「ビスケット」p.148)

 辻山良雄さんの言葉を借りれば、「わたしを分かってくれる、もう一人のわたし」が共通して持っているのは同じような切実さだと思います。各々の切実さには差が多分あります。そういった切実さの中に名探偵の所以があるのだと思います。

 「ネットを見ると、たちまち、」(「遠い唇」p.19)

 そして、この切実さは表題作の展開にもきっとつながっています。