安東みきえ『ゆめみの駅 遺失物係』ポプラ社

 「すぐにすとんと落下してしまう。飛ぶ夢というより、落下する夢といった方がいいくらい。」(p.66)

 『灰羽連盟』というアニメの冒頭、少女は夢を見ています。それが夢だとは後々分かるのですが、その中で彼女は高い所から落下しつづけています。

 「聞いたつもりのおはなしは、みんな自分の夢の中で勝手に作り上げたものでしょうか。」(p.88)

 眠っている時に見るものと、叶えたいと望むものが同じ名前で呼ばれているのは何故なのでしょうか。同じ名を持つ以上、何か共通点があるのかもしれません。現実には無いところ?「現実」の自分とは隔たった場所にあるところ?

 「蝶々たちは、それでよかったんでしょうか」(p.134)

 引用した部分とは関係がありませんが、胡蝶の夢という話があります。夢という言葉に「隔たり」という意味合いがあるとしたら、起点と終点が翻れば、現実が夢で夢が現実になります。

 『灰羽連盟』の少女は夢をもとに「ラッカ」と名付けられました。

 この本の題名には「遺失物係」とあります。

 「ずっと、なにかしなければいけないことがあるような気がしていたけれど、」(p.56)

 遺失物を人は探します。探し物はまだ持ったことのないものでしょうか。それともかつて持っていたものでしょうか。

 この本を通して私は二つの誤解に気づきました。ひとつは、井上陽水さんの『夢の中へ』という歌の題名を『さがしもの』だと思っていたこと。もうひとつは、工藤直子さんの「あいたくて」という詩の部分を「手の中にさがしものをあずかっているから」とかなんとか間違って覚えていたこと。

 「もともと望まなければがっかりすることもないのですから。」(p.7)

 何も探さなければ、夢の中へ行こうとしなければ、がっかりはしない。

 『灰羽連盟』の作中では、彼女たちの暮す壁の中が現実です。でも、「現実」に生きているはずの視聴者には、彼女たちが灰羽として生まれるときに見る夢が何なのか分かります。在るものと隔たったものが夢だとして、ではそれは無かったものなのかというと。

 「どんなすばらしい未来も、まずだれかが夢見ないことにははじまりませんから」(p.94)

 読んだ本をもとにしてこうして連想ゲームをしていて、自分が失くしたものを探すとはかぎらないのだと思い至りました。他の誰かが失くしたもの、自分が持っていないものを探していることもある。

 「ずっと心にかかっていたことを物語にして、それで気持ちをひとつ終わらせる、ということもあるのです」(p.160)

 誰かが決着をつけた気持ちを別の誰かがまだ気にかけていることもあれば、これから気にかけることもある。それを求める、探すというベクトルに含まれる運動性が夢ということなのかもしれません。

 「人がぽろぽろと落していったもの、石にまぎれて踏みつけになっているもの、その中にある尊いものを拾いあげてみたい。」(p.203)

 安東みきえさんの言葉を読んでいると気持ちが凪いでいきます。それは、この『ゆめみの駅 遺失物係』の構成がそうであるように、人の語るおはなしに耳を傾けることが、探すということ、夢に向かうということを静かに肯定しているからのように思います。