朽木祥『海に向かう足あと』角川書店

 題名に見せられる映像があります。

 『海に向かう足あと』という言葉に触れた時、私が見ていたのは海へ続く足跡だけで、その画には海から帰ってくるものは映っていませんでした。つまり、私が題名に接触したときに感じたメッセージとは入水自殺でした。もう少し穏やかに言えば、「帰ってこない」という響きを聞いていました。

 「一番大事なのは、生き残って戦い続けることだからさ」(p.136)

 どうしてこの題名なのか。この本について実際に読む前に「ディストピア」という情報が提示されています。帯にある「ディストピア小説」という文言。ディテールとして何が起こるのかは分からなくても、どういった種類のことが起こるのか想定してしまう。自分の中で題名によって形成された予断が肉付けされます。

 「この海がずっと遠くの国までつながってるんだなあと思うと、一生たどり着けなくてもいいような気がして」(p.85)

 先日読んだアラン・コルバンの『空と海』で、大気と気象の表象について書かれている箇所がありました。ある時、大気つまり空は遠くまでつながっているものだと発見されたと。そういった捉え方は遠くの気象がここの天気の変化(逆にここの変化が遠くの気象)へ影響していることを前提としています。

 「海へ向かう足あと」という言葉から私が感じていた射程は、海を終着点とするものでした。でも、上に引用したセリフのように海自体は更に遠くへ続いている。他とのつながりを感じない見方をしてしまっているとき、互いに影響し合っていることも忘れています。

 「キノコ雲はね、二つ見えたのよ。」(p.210)

 広島と長崎。この本で起こることや設定に新しさはないのかもしれません。ただ、著者の行っていることが、過去に現実に起こったことの焼き直しなのではないかと思った瞬間から、この小説の肝は何が起こったかではなく、それがどのようにして(whyというよりもhowとして)起こったのかを伝えることなのではないかと思えてきました。

 もちろん、フィクションなのですが、時間軸として未来に設定されているにも関わらず書かれているのは、これから起こることではなく、既に起こったことなのではないか、と感じられる連想は、空間として大気や海の遠くとのつながりを見落としていたように、時間の上でも例えば過去と現在と未来のつながりを失念しているのではないかという疑念に至らしめます。

 まるで著者が「忘れてはいけない」と言っているように感じられます。

 「見送る人が必要ですからね、海に出て行く船には」(p.239)

 この本の題名から私が作り上げた先入観にはもうひとつ抜けている視点がありました。それは陸にも人がいるということ。「海に向かう足あと」が存在するには、陸からそれを見る視点がなければならない。そう、リクがなければならない。

 お話の後半、登場人物のひとりが海へ向かうよう促されるシーンがあります。その時、海が象徴するのは救いや未来です。

 渚を現在にして、海を未来とする比喩が許されるなら、陸は過去に相当するのかもしれない。「海に向かう」というベクトルならきっとそうです。そう考えると『海に向かう足あと』という題名自体が「過去はある」と示しているように感じられます。

 つながっている過去を忘れてはならない、以上ぐだぐだと書いてきた感想をまとめれば、私が聞いたメッセージはこうなります。

 そして、今更ながらヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」(p.109)がはっきりと引用されていたのを見逃していたことに気づきます。