福田尚代『ひかり埃のきみ:美術と回文』平凡社

 「ゴールのつもりでリセットボタンに飛び込んで

  僕等はぐるぐる同じ場所を回ってるんだ」

            (FictionJunction YUUKA 『Silly-Go-Round』)

 

 この本は3部から成っています。Ⅰ部は本や文房具をモチーフとした美術作品集、Ⅱ部は回文を集めたもの、Ⅲ部は美術と回文についてのエッセイという構成です。

 「《はじまりからも終わりからも読むことのできる言葉》とは、彼岸に向かわざるを得ないものなのだろうか。」(Ⅲ部 p.198)

 Ⅱ部に収録された回文を読みながら、私は回文の中心について考えていました。

 回文は始めから読んでも終わりから読んでも同じ文です。ただ、濁音はないものとして扱っていて、それが回文のルールなのかどうかは知りません。

 回文は2種類に分かれます。かな数が偶数であるものと奇数であるものです。いずれも真ん中まで来た後は、先に進んでいるつもりでも実はもと来た道を戻っているのかもしれない。かな数(音)が奇数のものは折り返し地点となる一文字(音)があるはず。一方、かな数が偶数になるものは、折り返し部分に同じ音が2つ続いています。この偶数のものに折り返し「地点」を見ようとすれば、その連続する2音の間、つまり空白部分が該当するような気がします。

 そうした感覚から、かな数が奇数のものは点対称の回文、偶数のものは線対称の回文、というイメージを私は持ちます。

 正直に言って、回文として書かれている韻文めいた文字列を読んでいて、その「文章」の意味をほとんどとれませんでした。古文を読んでいて、地の文の中に出てくる和歌の意味をとれないのに似た印象を受けました。要するによく分からない、と思ってしまっていました。

 「貝

  詩

  苦痛

  灰

  風

 

  世界はうつくしいか」(p.95)

 そんな中で、名詞が列挙されているタイプの回文からは、上に書いた意味をとれない、よく分からないという印象を受けませんでした。それは、名前の連なりは、「文章とは意味を持つものである」とでもいうような認識から自由になる部分があるためかもしれません。伝えるべき内容が「上から読んでも下から読んでも同じ(つまり、回文である)」であるなら、そのために並べられた言葉は目的を達している。

 意味をとれないと言い切るのに躊躇するのは、言葉を解る人にとっては意味の通じる文章になっているかもしれない、という思いがあるからです(要するに自分の力不足がそうさせているかもしれないと思っているからです)。

 もしも、発想が逆で、言葉は回文を作るためだけに集められているとしたら、その目的のために偶然、隣合い連なり合うことになった言葉たちの醸し出す空気やイメージを感じるままに受けとるのが、この本のⅡ部の楽しみ方のように思えてきます。

 そして、もしも、そうやって言葉の繋がりを受け取らせるための手段として回文が用いられていたとしたら、回文の果たす役割として目的と手段が手段と目的に翻っているように感じられて、メタ的に始まりと終わりが往還しているような気がしてきます。

 

 「入口と出口のふたつは

  思いもかけず似たものどうし 」(南壽あさ子『八月のモス・グリーン』)