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三宮麻由子『鳥が教えてくれた空』集英社文庫

本の感想

 この本を読んでいる間、私が見ていたのはまぶたの裏でした。本を読んでいるとき、文字通りに言えば見ているのは紙面に印刷されている文章です。でも、それと同時にいつもは何かが頭の中で像を結んでいる。それは文章の対象であったり、それを書いている著者の姿であるかもしれない。この本に関してそれは目を閉じた時に「見える」であろう画像でした。

 「こんなこと聞いて失礼かもしれないけれど、目の不自由な方も書道なさるんですか」(p.156)

 著者は幼い頃の手術で視力を失います。この本を最初から順に読んでいく読者は、ある程度読み進めるまで著者が全盲であることが分からないはずです。私は事前に本についての情報として著者が失明していることを知っていました。そのため、著者が「見ている」であろうことがうかがえる記述を読みながら、自分が目を閉じた時に見るであろうものを想像していました。逆に予め失明のことを知らなかったとしたら、同じ文章を読んで何を「見た」のだろう、とも思います。

 谷村新司さんの『昴』を口にしてしまえば、何も見えないことは悲しいことのように自然と思ってしまいますが、著者が綴る文章から感じられるのは彩りでした。

 「野鳥の声は、その空がいまどんな様子なのかをも、つぶさに物語ってくれたのである。」(p.24)

 視覚以外の感覚、聴覚・触覚について本書では特に触れられています。そして本書は障害とどう向き合ったのかの記録というよりも、障害がある状態で何をどう感じたのか、著者が認識している世界についての記録といった方がよいものだと思います。

 レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』に確か、知ることは感じることの半分も大切ではない、という主旨の箇所があったと記憶しています。著者が鳥の鳴き声を聞き分けている様を読んでいると、『センス・オブ・ワンダー』の意味合いで自分を取り巻く環境を「感じている」姿が読みとれます。

 また、植物を触ることで捉えていく様も同様です。

 時折、読んだ本について言及されてもいますが、それをどう「読んだ」かを考える(つまり、点字なのか音声読み上げなどなのか)とその手間のことを思ってしまいます。

 「点字本となると『季寄せ』はあっても、ある程度の量をもつ歳時記は見つからなかった。」(p.82)

 結局、障害を持つ著者がこれだけのことをしているのに(海外留学をされたり、ピアノが弾けたり、いろいろなところへ旅行にも出かけ、鳥の観察を兼ねた山登りもされています)、それに比べて自分は・・・、という陳腐な卑下をしてしまいそうに何度もなり、というよりも、自分が毎日の生活の中で全然「感じていない」ということを痛感させられたことの方がインパクトが強かったのかもしれませんが、読んでいてしんどい思いをしました。そんな自虐的な感想は次の部分を読んで強くなります。

 「後ろは私にとって、最初から大事な方向だったのかもいしれない。」(p.227)

 記憶違いでなければ、星野富弘さんだった思うのですが、後ろ向きの方が力が出るという主旨のことを書かれていました。逆上がりしかり、バックドロップしかり、車イスも段差を越える時はバックで進んだ方がいい、など。

 障害を持つ方が「後ろ」に大切さや力を感じているという共通点を思いながら、私はエンデの『モモ』の展開を思い出していました。

 『モモ』のある部分で、モモとカシオペアは灰色の男たちができないあることをすることで追跡を逃げ切っていたはずです。

 知らないうちにその「あること」の対局にある効率的であること、速くすることの方が難しいと思ったり、偉いと思っているのかもしれない。だから「あること」を簡単なこと、劣ることと見做している可能性がある。でも、それが「できない」のなら、「あること」の方が難しいのかもしれない。

 上に書いたように自分を卑下する感想を抱くのは、自分が『モモ』に出てくる灰色の男たちのようになっているのではないか、そんな気づきを与えてくれる本でした。