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小池昌代『屋上への誘惑』岩波書店

 「用意のない所へ、ふいに訪れてくるものは、思わぬ力をもってしまう。」(p.75)

 この本を読みながら、自分はどうしてエッセイを読むのだろうと考えていました。本を読むようになったのは、高校生の頃でしたが、当時は色々なものが新鮮に見えて、こんな考え方もある、あんな感じ方もある、と自分にはないものを知る喜び、自分と似ているかもしれないものを(著作をものすことができるスゴイ)別の人の中に発見する喜びを理由に読んでいたような気がします。

 そんな発見は今でもあります。そして、これから何冊本を読んでも、新しい本を読む度に発見は続いていくのだと思います。

 でも、これは今自分がそういった状態にあるためにそう思うのかもしれませんが、これらを全てひっくるめて「それで?」と思ってしまっている側面がある。本を読んでも結局、ここにいる自分は変わらない。変えるつもりがないから変わらないんだと言われてしまえばぐぅの音もでませんし、そもそも変えたいのかとツッコまれれば言葉に詰まります。

 『屋上への誘惑』、この本に関しては、読んだ理由は明白です。以前、「屋上は飛び降りる所」というフレーズを目にしました。その通りで、屋上の機能として何番目にくるのかは分からないけれど、確かに屋上は「飛び降りる」をアフォーダンスとして持っている。だとしたら、「屋上への誘惑」は死への誘惑、自殺願望の言い替えなのだろうか。それを確かめたかったのだと思います。

 その疑問への答え(のようなもの)は本書の「あとがき」を読めば得られます。

 屋上を死と結びつけるイメージをマイナスとすれば、私は屋上にプラスのイメージも持っていることに気づきます。

 倉田英之さんに『R.O.D.』(Read Or Dieの略)というライトノベルのシリーズがああります。主人公は大英図書館の特殊工作部員(要するにスパイ)という設定で、かつ本の虫です。神保町に自前でビルをもっており、その中は本であふれている。結果、屋上に建てたプレハブで寝起きをしています。

 そのエージェント、読子・リードマンはひるむことなく本を読んでいきます。きっと彼女だったら、「自分はどうしてエッセイを読むのだろう」などと迷ったりしない。

 「私は、今このことを書きながら、そんなふうにして、考えないで何かをやったことがあったような気がしている。」(p.61)

 自分がやっていることに対する客観的な反省は必要な時もあれば、不必要で思いきりが大切な時もある。私は、本当は何も考えずにひるまずに本を読んでいきたい。でも、それは今引用した部分で言われている「考えないで何かをやったこと」が孕む危険性と隣り合っている。

 結論すれば、これまでに書いたようなことをウダウダと休みにも似たように考えたくて読んでいるのかもしれない。下手の考えが休みに似ているとしたら、本当に欲しているのは休みなのかもしれません。

 「始めと終わりがあるなら、その間に何かがあったということになる」(北村薫『盤上の敵』講談社文庫 p.163)

 1冊の本を読みはじめて読みおえる、その間には本当に何かがあったことになるのでしょうか。

 ただ、冒頭に引用したように、この『屋上への誘惑』にも不意打ちとも、痛恨の一撃とでもいえるものはありました。

(フィスワヴァ・シンボルスカ「詩の好きな人もいる」より著者が引用されています)

 「でもわたしは分からないし、分からないということにつかまっている

  分からないということが命綱であるかのように」(p.172)

 

 最後のさいごで「死の好きな人もいる」と誤変換され、胸を突かれます。