川崎昌平『重版未定』河出書房新社

 『重版未定』は中小出版社を舞台に編集者たちの悲喜こもごもが描かれるコミックエッセイ(完全フィクション?)です。

 「小見出しなんて読者を甘やかすだけだぞ・・・甘やかされて育った読解力のツケを払うのは結局俺たちだ」(p.174)

 お話はある編集者を主人公にして進行していきます。画も淡泊なもので心太を食べるようにスルスルと読めてしまいます。でも、そんな「易しさ」の反面、描かれている内容や言葉にはトゲがあります。狭い場所を通り抜けたあと、気づけば釘に服を引っかけて破れていた、そんな感触が心に残ります。

 たとえば、編集会議にて、主人公が編集長から問われるシーン。

 「この本に読者はいるのか?」

 「います」「私が読者です」(pp.34-35)

 舞台は中小出版社なので、各種マーケティングデータから外れないテーマ・内容の本(ありていに言ってしまえば、柳の下のドジョウを狙う本)を作る方向へ舵が切られそうなところです。そんな風景の中で上に引用したようなやりとりが交わされる。

 おそらく、ここで言われている「読者」は「その本を買ってくれる人」と同値ではない。仮に多くの人が買ってくれたとしても、読まれなければ主人公は編集長からの問いに対して「いません」と答えたと思います。

 「資料は利用するためのものである」(ランガナタンの「図書館学の5法則」)

 関係ないことを連想してしまいましたが、たしか、『図書館戦隊ビブリオン』という小説にこんな展開があります。主人公側(司書陣)を足止めするために敵側がとったのが人間を操って本を借りさせようとすること。自動貸し出し機なんて存在するわけのない学校図書館が舞台ですので、人間を使ったDDoSアタックです。カウンター(貸出)業務でパンクして身動きがとれないビブリオン。ところが司書教諭(司書だったかもしれません)が言い放ちます。ここは私が引き受けるからあなたたちは行きなさい。

 「図書館学の5法則」には「読者の時間を節約せよ」という項もあります。カウンターに長蛇の列を残し敵を追うのは、司書の理念に反するのではないか、くだんの司書は諭します。あなたたち、この人たちが読者に見える?そう、本を借りようとしているのは、敵に操られてカウンターに並んでいる人たち、他人の意思を他人が勝手に決めつけている、という危険性を孕むものの、このストーリー展開では利用者は借りた本を殆ど読まないでしょう。

 本が企画され作られ読者の元に届くまでに経由する利害関係者はたくさんいます。個々人がどうであるか、そこを言うつもりは全くありません。これから書くことが当てはまらない、全然違うという方が多いとは思います。ですが、逆説的に個々人がどうであっても、構造・システムと呼ばれるようなものの中で売れた後、つまり読む・使う際のことが射程から外れる、そういったことが起こりやすいのではないか、そう思う箇所でした。

 「私が編集した本は・・・棚差しか」(p.99)

 私は個人的に平積みされている商品や面陳されているものより棚に1冊で差さっている方が好きです。(柴野京子さんの『書棚と平台』弘文堂刊 が気になっているのを思い出しつつ)

 これも勝手なイメージですが、平積み・面陳には量が多い(売れる・売れている)から置いている銘柄の割合が多いと思います。一方、棚差の場合、そこへ差した店員さんが考えて出している場合がある(特に何も考えずに適当に差している可能性もありますが)。この1冊だから、この本の隣、あるいはこの本とこの本の間に差そう、そういう意志の痕跡があるように感じるためです。

 「みんな落ち着きましょう」

 「暴力で本が売れるんなら苦労しません」(p.184)

 この箇所で私は『言葉の暴力』(ジャン=ジャック・ルセルクル著、法政大学出版局刊)というタイトルを思い出していました。おそらく内容としては、福島聡さんの『書店と民主主義』(人文書院刊)を思い浮かべるのが妥当なのかもしれませんが、暴力で売れない、という考え方が本当なのかと懐疑を抱いていた自分に引っかかった部分でした。

 

 最後に一番、印象に残ったくだりを引用します。

 「本は逃げないからゆっくり読みなさい」

 「・・・本は逃げますよ?」(p.94)

 なぜかエンデの『モモ』に出てくるカシオペアのことを思い出します。