長谷敏司『あなたのための物語』ハヤカワ文庫

 「サマンサ・ウォーカーがひとり、病気療養中の自宅でこの世を去ったのは、三十五歳の誕生日まぢかの寒い朝だった。それが、彼女という物語の結末だった。」(p.11)

 ひとりの女性が病を得て、痛めつけられて死んでいく、この小説ではその過程が描かれます。読みながら私が考えていたのは、柴田淳さんの歌のことでした。

 柴田さんには「君へ」という歌があります。もう亡くなってしまった語り手が、片想いをしていた相手(といっても面識がないわけではなく、恋人という関係にはなかった/なれなかった友人・知人であって、語り手の死に対して涙を流すくらいの間柄にはある)への希みをとつとつと語った(と私が勝手に思っている)歌です。

 「現実の肉体の苦痛で、理性は簡単に方向を失った。」(p.91)

 「君へ」はアルバムに収録されている曲で、私はそれを初めて聴いたときのことをよく覚えています。現実の柴田淳さんがどういった方で、どういった境遇にあったのかは詳しく知りません。でも、この曲を聴いていると自分の中で物語が再生されていく。

 「この病気は現代の科学では治療できません」(p.76)

 不治の病、余命を宣告され動揺が止まらない。

 「もう一人じゃ抱えきれず 誰かに甘えたかった」(「君へ」)

 助けるを求める相手は理屈で言えば、誰でもいいのに、「君」に打ち明けてしまった。病気の種類や症状、進行具合はおおっぴらに言いにくいものだと思います。

 「一緒に秘密を抱えてくれた君を」(「君へ」)

 きっと、周囲の他の人は語り手の詳しい病状を知らなかったのでしょう。「君」だけがそれを共有していた。

 キューブラー・ロスという人に「死の受容の5段階」という考え方があるそうです。「君へ」の語り手が相手について穏やかに歌詞のように思えるまでには、その5段階に含まれる辛いステップを踏んだはず。その七転八倒もまた共有された「秘密」なのかもしれません。

 「君へ」に含まれるフィクションに関わらず、柴田淳という人は上に挙げたように過程を経ていく気持ちを知っている。分かるから書ける、という風に感じながら聴いていました。

 さて、『あなたのための物語』です。

 この小説を読みながら私は柴田さんに感じた好奇心と似たものを長谷さんに感じていました。病理的な説明、症状の描写、そういったものは医療関係者から見て「リアル」なものなのかどうか正直に言って分かりません。でも、時間で区切られた死に直面した時に人間がどういった反応をするのか、長谷さんはそれを知っている分かっているからこういった文章を書ける、そう感じさせる作品です。

 「人間はただの動物だ。肉体がよいコンディションにある間だけ、人間になれるのだ。」(p.313)

 この小説ではもうひとつ、物語の役割にも焦点があたっています。この1冊をかけてこの世を去ることになる女性は優れた科学者です。開発したAIは物語を人間に作って読ませる機能を持っていました。

 「絶対必要なわけではないから、好かなければ気に懸けてもらえない。みんな物語と同じよ。本当は必要ないから、自由でいられて、ときどき特別なものに見えるのよ」(p.287)

 物語を読むよりも、脳を操作する方が効果的なら、物語はその効用という面で更に不必要なものなのかもしれない。そもそも、物語は現実に対して直接に作用するわけでもない。

 「物語は物語だ。現実の彼女が救われるわけではない。」(p.274)

 けれども、この『あなたのための物語』を読んで私が感じたのは物語の必要性でした。

 「ひとつひとつのできごとに、つながりはないわ。続いて起こって(シーケンスを作って)いるから、"物語”性を感じるだけよ」(p.362)

 逆に言えば、物語は継起性を体現している。本当はないかもしれないつながりを感じさせてくれる。冒頭に引用した主人公の死を描写した箇所には「ひとり」という語彙が見られます。

 「百人の他人に見守られようと、人は孤独に死ぬ。」(p.6)

 物語というものが存在するそれだけで、「在る」と感じてしまう繋がりやシーケンスはこうした考えのカウンターとして大きな力を持っていはしないでしょうか。死の5段階がフラットではなく段になっているのも、経過していく時間が含まれているから。そんな時間の存在を知ることは、自分がいなくなった後も残る「君へ」やさしい感情を持ち続けられることにつながっている気がします。

 

 「痛みは減らなくても、寂しさはへるわ」(レイチェル・ナオミ・リーメン『失われた物語を求めて』中央公論新社 p.79)