鴨下信一『昭和のことば』文春新書

 「昭和の時代は〈変わらないこと〉が理想で美徳だった。」(p.12)

 古臭かったり、時代遅れのような表現やふるまいを「昭和っぽい」と言うことがあります。私はそこで「昭和っぽい」と形容されているものが好きです。でも、それらが本当に昭和の時代に主に行われていたり言われていたものなのか、古さを感じることと昭和が単純に平成の前の時代で古いことによる共振のような連想からの言葉選びなのか、不確かなものを感じます。「昭和っぽい」がアナロジーによる形容であるならば、本当に好きなのは昭和ではなくて、落ち着きがあったり穏やかだったり静かだったり、そういったものなのかもしれません。

 『昭和のことば』はもう死滅してしまった、あるいは死に体の言葉をとりあげ、各々について綴ったエッセイ集です。

 この本は、クレムペラーの『第三帝国の言語』という本を読んだことがきっかけで興味を持っていました。『第三帝国の言語』はナチスの圧政を生きのびた著者が第三帝国に特有の言葉、言い回しを記した本でした。そこに書かれた言葉を読みながら、逆に使われなくなった表現や単語は認知されにくいのではないかと私は考えていました。無いものに気づくのは難しい、とどこかからの受け売りの考え方です。

 ですので、無くなったものとして認識しているであろうこの本が、その無いものをどのようにして捕えて/捉えているのかとても興味がありました。

 言葉が無くなるのは、大雑把にいって二通りの場合があると思います。ひとつは単純に無くなる場合。もうひとつは他の言葉にとって代わられる場合。先ほど使った「大雑把」がそうだと自信を持って言えませんが、「大雑把」とか「大まかに」とかではなく、「ざっくりいって」と言う方が今は大勢のように思います。似ているけれど、「ざっくりいって」と「おおまかに」は厳密に同じではない感触を受けます。

 本書で取り上げられている言葉で言えば、「空襲」(pp.14-16)は前者の場合ですし、告別式にとって代わられてきた「葬送」(pp.168-170)は後者の場合だと思います。

 さて、この本を読むこととなったのは、無くなったものを無くなったものとして捉えるのはどのようにして可能なのかという疑問のためでした。読みおえて思うのは、陳腐ですが、それが在ったことを知っている人でないと分からない、ということです。逆に言えば、存在を知っている人をいなくしたり抑圧することは、その意図とは別にして無くなったものに気づけなくさせることだと思います。

 今、頭の中でこだまする「懐古厨、乙」という仮想の批判を聞きながらこの文章を書いています。けれども、おろおろしたり、しどろもどろになったり、右往左往したりするのではなくテンパると言ってしまうと、そこからはやはり零れ落ちていくものがあります。

 それがいけないことだと言い切るだけの踏ん切りはつきませんが、味気なく寂しいものだとは感じます。

 「話の終わりに古典や旧い名文句を持って来てしめくくりにするのは、もうそれだけで、〔昭和〕っぽいといわれそうだが」(p.250)

 

 「昭和がそんなに誇るべき文化史的価値があると強弁するつもりはないが、崩れる前に記録だけでも残して置きたいと思う。」(p.268)