緑川ゆき『夏目友人帳』21巻 白泉社

 「強くならないと なんにも守れないよ、周一さん」(『夏目友人帳』17巻)

 この21巻には特別編17として「伸ばした手は」が収録されています。本編で時折、夏目くんと絡む名取周一の若かりし頃を描いた短編です。その周一さんは同級生の振る舞いを見てこんな風に考えています。

 「自然におもいやれるひともいる―おれもそういうひとになりたかった」(「伸ばした手」)

 そうやって自分の性質について悩みながら過ごしていく彼の姿を読みながら、私は強さについて考えていました。以前の巻に収録されていた話数で彼は、冒頭に引用したように言われていました。私はそのセリフを「強くならないと」ではなく「やさしいだけじゃ」と違えて記憶していました。やさしいことは強くないと無意識に捉えていたし、作中の登場人物もそういった価値観で語っていると思っていました。

 南壽あさ子さんは『フランネル』という曲でこう歌っています。

 「優しくいることが間違っていても こうしていたいの」

 南壽さんが歌っている姿を映像でみるときに連想する言葉は「透明」です。人間として本当のところ、実際はどうなのかは分かりませんが、歌や声、たたずまいから「透明」という概念を具現化した存在のように見えます。それと同時に、南壽さんの年齢になるまでそういったカタチで居続けられることは可能なのだろうか、とも考えます。

 でも、これは透明なもの、やさしいものを弱いものと捉える前提が引き起こしている疑問であって前提が異なっていれば不思議はないのかもしれない。

 ヨースタイン・ゴルデルの『鏡の中、神秘の国へ』という小説に次のようなシーンがあります。天使と一緒に歩いていた主人公は天使が岩をすり抜けるのを目撃して言います。岩を通れるなんて、やわらかいのねと。それに対して天使はこう応えます。逆だよ、固いから岩も通れるんだ。説明の具体例として確か、霧の中を歩く人間が引かれていたと思います。人が霧を通れるのは霧よりも固いから。天使と岩の関係も同じだと。

 間違っていると否定される環境でも、そう在りつづけられるのは、弱いのではなくて強いのではないか。

 「悪くない奴を祓うことはできない」(「伸ばした手」)

 そう考えられるなら、名取周一が強くない自分として捉えている姿は実は強いのかもしれない。

 「あんな小さく醜い奴に役目が果たせるものか」(「石起こし」p.40)

 そして、この巻最初の話数「石起こし」に対して、結局夏目くんたちの救けがなければ役目を果たせなかったじゃないか、運が良かっただけだという批判があり得ると考えながらも、でもその妖がそういった性質でなかったなら、夏目くんたちが協力しただろうかと考えたときに、結局人の手を借りられたことも含めて、その妖がそういった存在だったから果たせたということが、そんなカタチでありつづけることの意味を示しているように感じます。

 やさしさが強さではないと思っている話者に「強くならないと なんにも守れないよ」と言われた時に、約束は守れるよ、と返すのは中二病風味が効きすぎた言葉遊びでしょうか。