宮部みゆき『ペテロの葬列』上・下 文春文庫

 「この世でもっとも美しいものは、真実ではない。終わらない嘘の方だ。」(下巻 p.103)

 主人公は取材先からの帰りにバスジャック事件に巻き込まれます。事件自体は収束しますが、犯人と人質たちの間で交わされた会話がこの本で解かれる謎の始まりとなります。犯人の要求はどういう意図だったのか。犯人は人質たちと約束を守るのか。

 この小説の中で見つめられていたのは、嘘を終わらせるものだったように思います。

 「詐欺まがいのことをやる会社に勤めてて、知ってて加担してるなら、そこの社員だって詐欺師みたいなものです。」(下巻 p.85)

 もしも、知らずに加担(というのも表現上おかしなものですが)していたとしたら、同じ会社に勤め同じ仕事をしていても、「詐欺師」とは呼ばれにくくなるのか。でも、それは知っていたのに、知らなかったと言い通した場合と形としては同じなのではないか。嘘をつきとおした方が美しいのに、人が嘘を終わらせてしまうのはなぜなのか。

 「改心が、劇的に過ぎるからです。その後でやったことも派手だ。ただ時間が経過しただけじゃ、そこまで急な心の変化が起こるものじゃないと思うんですよ」(下巻 p.271)

 この後で述べられている改心の理由は、ここで言及されている人物がそれまでに行ってきたことに連なっているように私には思えます。そして、その改心の理由を主人公に告げた人物の家業がどう形を変えて存続したかを考えたとき、それもまた濃度が違うだけで同じものが姿を変えたもののように思えます。

 「後悔していたという。だが、変わってはいなかった。」(下巻 p.284)

 小坂国継さんという方に『善人がなぜ苦しむのか』(勁草書房刊)という本があります。未だ読んだことはありませんが、この題名を見るといつもトートロジーを感じます。もしも、善人というのが善悪の区別がつく人で、苦しみの源泉が悪を為している(善にもとっている)という自覚なら、苦しんでいるならその人は善人だし、善人でなければそもそも苦しまないのではないか。

 嘘を続けられる人というのは、それを嘘だと分からない人かもしれない。上で述べた改心の理由も、家業の変わった姿も、程度が違うだけで否定しようとしている嘘と同じものですよと誰かが唆せば、登場人物たちの苦しみは続くのかもしれません。

 「事件を起こす前に、何かそういうブレーキがかかる。そこで止まれるか止まれないかが、人の運命を分けてしまう。」(下巻 p.383)

 そこで停止するために必要なもの、嘘を終わらせるために必要なもの、それを得るためにどうすればいいのか、その答えは結局出ません。生得的なものであり随意的に獲得できるものではないという理屈になってしまいそうで、でも、それは違うと直感的に言いたい自分がいます。

 「あたしぐらいの歳になったら、間違ったと思っても、もう人生をやり直すことなんかできないの。ただ、終わらせることしかできないのよ」(下巻 p.291)

 そうなる前に、間違ったことには気づければいいのになと思います。