読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

橘宗吾『学術書の編集者』慶應義塾大学出版会

 少し前にMusic, the Brain, and Ecstacyという本を読みました。その中である曲の中でのかたまり(演者がフレーズとして認識するかどうかという話に絡めていたと思います)や1曲というまとまったものとして認識されるかどうかと記憶の関係について書かれている部分が確かありました。小林泰三さんの『失われた過去と未来の犯罪』についての話題をよく目にしている時期だった(のと、小林さんの『記憶破断者』という作品について聞いているイメージからの連想で)ため、記憶の続かない人は音の連なりを1曲として捉えることはできるのだろうか、と自然と考えていました。

 特別、記憶が続かないわけでもない「普通の」人でも仮に2日間続く1曲があったとしたら、別々の離れた箇所を聴いて、同じ曲の部分だと認識するのでしょうか。

 そういったことが心に留まったのは、同時に政治家の発言について考えていたからです。以前の発言を指摘され記憶にないと応答した政治家が批判されるのをTVやソーシャルネットワークで度々目にします。あるいは、以前言っていたことと正反対ととれる内容を平然と口にしている姿を見ることもあります。

 これらが批判の対象となるのは、発話者に一貫性が前提されているからでしょう。本当は覚えているのに都合が悪いから忘れたと言う。そこへの責めには嘘や倫理にもとっているという評価が含まれています。でも、もしも、本当に文字通り「記憶にない」としたら。覚えていることを前提にして、覚えていないことの不誠実さをただしているとしたら、実際に記憶が無い場合、その批判の基点は外されてしまう。

 「情報には作者は存在せず、読者もまた存在しません。」(p.18)

 長々と過去の連想を書いたのは、本書を読んでいて時間の連なりを是(著者の言葉を借りれば「徳」ということなのかもしれません)とするものが追いつめられている流れと似ているように感じたためです。

 著者は「学術書とは何か」という章において学術書が担う情報と知識という側面について書かれています。検索などによって一足飛びに得ることができる情報に対して、(作者が存在する「作品」としての)知識はアクセスするだけでは得ることができない。著者は「経験財」「信頼財」という言葉を使われていますが、ランダムアクセスではなく、あるまとまりに対しては順を追って読む、経験しなければ得ることができないもの。

 また脱線しますが、Unscientific Americaという本に人文系の学者と自然科学の学者の争いに触れている箇所があります。そこで言われていたのは、確かに両者は叩き合いをやっていたけれど、知識が大事だという点では共通していた、そこに知識を問題視しない勢力(つまり当時の政府)が入ってきた時に吹っ飛ばされてしまったということでした。

 本書の後半部分で出版助成の制度について書かれてもいます。また、余所で耳にする大学や初等・中等教育への施策をあわせて考えると、著者が学術書の優れた側面だと考えている経験・信頼財という傾向がないがしろにされる、あるいは意図的ではないかのように自然とないがしろにされていくのは、何か大きな流れの一つだと感じられます。

 ジョナサン・スターンの『聞こえくる過去』という題名を思い出すとともに、「歴史戦」という言葉を連想し、一続きの同じ曲として聞く耳をもたない態度を感じていた身にとって、この本に書かれていた学術や知識、大学の姿はそうした態度に対して邪魔なものとして輪郭がはっきりとしてきます。