読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

伊坂幸太郎『死神の精度』文春文庫

本の感想

 この本は死神を主人公にした短編連作集です。

 死神の仕事は、本部から指示された対象に接触し、死ぬことになっている彼・彼女らをそのまま死なせていいのか、今回は見送るのか報告することです。

 「ろくに調査もせず、『可』と報告してそれでよしとする気持ちが私には理解できなかった。」(「吹雪に死神」p.100)

 こういう設定の小説を読むにあたってひとつ危惧することがありました。死神が「可」と報告するか「見送り」と報告するかは各話数の最後で分かります。判断に至る過程を読むことで、それが妥当かどうか考えてしまう。もしも、死ぬべきではないと自分が思う人に対して死神が「可」と判断すれば、理不尽さを思うし、死んでも仕方がないと思う人が「見送り」になれば、納得できない。その中ではっきりするのは、自分が死んでもいい/死んではいけないという風に人のことを区別しているということと、その基準や観点。これらが明瞭になるとしたらと、怖さを感じていました。

 「どうして人間は、何かと言うと同意を求めてくるのだ。」(「死神と藤田」p.85)

 でも、この本を読みながらこの登場人物なら死ぬべきだ、この人は死なないべきだ、ということを不思議と感じませんでした。中には殺人を犯した無思慮な登場人物もいたのに。

 それは、作中再三言われる人間は必ず死ぬ、いつかは死ぬという観念のためかもしれません。あるいは、主人公である死神が基本的に「可」と報告するスタンスをとっているからかもしれない。お話として描かれる対象とのやりとりは、死との因果関係を感じさせるものではなく、死ぬことはもう決まっていて単純にその人の人となりを教えてくれるものです。

 死ぬということが避けえないとしたら、あとは「いかにして」を知ることしかできないのかもしれません。そして、その「いかにして」を数多く知っていることが最終話「死神対老女」での2人のやりとりが醸す空気感をつくっているように感じて勝手に腑に落ちます。

 少なくとも私にとっては、登場人物たちがいかにして死に至ったかを知るという面で意味のある本でした。

 

 最後に脱線しますが、「死神対老女」で「眩しい」と「嬉しい」について会話している箇所があります(pp.336-337)。それを読みながら私は熊木杏里さんの「逆光」という歌を思っていました。そこで歌われている眩しいものと、歌詞の語り手がそれをどう受け止めているかは「死神対老女」で言われているものとは符号していません。死神と老女が気づいた「眩しい」と「嬉しい」の意味合いへと「逆光」が転じる、あるいは最初から同じもので認識が変わるきっかけがあるとしたら、それはこの本に書かれていた内容のようなものを知ることなのかもしれないな、ということをとりとめもなく考えています。

 「逆光」が収録されているCDのタイトルは、全くの偶然ですが、『生きているがゆえ』です。