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小川洋子『人質の朗読会』中公文庫

 ツアー中の日本人8名が現地のゲリラに拉致されます。彼らを人質にゲリラは仲間の解放を要求します。事件の結末自体は冒頭部分で明らかにされています。犯人、人質含め全員死亡。この『人質の朗読会』には、事件の過程で盗聴されたテープに残っていた人質たちの朗読が収録されています。

 それぞれの朗読では、語り手の過去に起こった出来事が物語られます。

 「自分とよく似た自分の知らない誰かの人生について思いを馳せるのは、案外心休まる時間でした。」(「死んだおばあさん」p.178)

 これは、ある語り手の話に出てくる言葉です。人質たちの語りを読みながら私も似たようなことを感じていました。

 「彼が死ぬと一つの言語が死ぬのか、だからこれは言語の死に向けられた祈りなのだ」(「B談話室」p.73)

 そして彼らの朗読を祈りのように感じている自分もいました。でも、それと同時に仮に人質として囚われているという状況、そして彼らが助からないという結末ではなかったとしたら、私はこの本に書かれている内容を同じように受け取ることができたのだろうかと考えていました。

 作中、9人目の語り手も人質たちの朗読を「祈りにも似た行為であった」(p.225)と言っています。事件に巻き込まれたという状況以外、例えば個人のブログのエントリーとして同じ内容が書かれていたとして、私はそれを祈りのようなものだと感じられたのでしょうか。

 あるいは、同じ条件の下で書かれている内容が同じだったとしても、それが小川洋子さんがつくった文章ではなく、他の人の言葉だったら、同じように感じられたのだろうか。

 昨日、伊坂幸太郎さんの『終末のフール』という本を読みました。そこには、天体衝突によって人類滅亡が約束されている人々の生活が描かれていました。人類滅亡と人質事件では、規模が違いますが、当事者にとって終わりが確定しているという意味では同じで、そんな特殊な状況だという理由が描かれる生活だったり、語られる話だったりを特別なものとして、語弊を恐れずに言えば読むに値するものだとして認識させるとしたら、私が読んで感じていることは一体何なのだろうと考えてしまいます。

 実際には素晴らしさを認めていないものなのに、特別な状況下だからと下駄をはかせて良いと思ったり、必要だと思ったりしているとしたら、極限の状態で物語が救いになると安易に言うことに躊躇を覚えます。

 「青年の槍投げを見た私は、もう決して、見ていない私には逆戻りできなかった。」(「槍投げの青年」p.168)

 実際に事件に巻き込まれたとしたら、自分の物語を朗読する余裕もないしそんなことは許されないのかもしれない。その内容も陳腐で拙いものに過ぎないのかもしれない。でも、知ってしまったこと、自分の中にある物語はなかったことにはできない。それを抜きにした自分にはなれないとしたら、終末を迎えてもそれが救いになるように感じます。

 こんな風なことを考えるのは、最近読んだThe Storytelling Animalという本の内容に影響されすぎているような気もしますが。