北村薫『中野のお父さん』文藝春秋

 主人公である編集者が仕事で遭遇した「謎」を実家に住む父親が解く日常性のミステリ。私は父と娘の関係のことを考えながら読みました。

 「自分の頭で最初に考えたことが、そのまま書いてあると思い込んでしまった。目で文字を追いながら、きちんと読んではいなかった。」(「闇の吉原」p.124)

 以前、twitterでこんな話題を見かけました。国語のテストで「『蜻蛉日記』の著者の子どもの名前を答えなさい」という問題があり、マニアックすぎると愚痴を言った子どもに対して『蜻蛉日記』の著者が誰か言ってみなさいと問いかけた、という内容でした。私はふと思います。『中野のお父さん』の主人公の名字を答えなさい、という問題があったとしたら。

 この連想は多分、「謎の献本」という話数で『ドラえもん』に出てくるジャイアンの本名に関するやりとりを読んだことに影響されています。もっともらしい説明付きでこれが事実だよと提示されれば、それを定説だと受け容れてしまうのかもしれない。ジャイアンの妹のペンネームのことなんか忘れてしまって。

 「中野のお父さん」は定年間際の国語教師という設定です。娘が持ちこむ謎に対して自身の知識、経験そして書庫にある本を動員して解釈を与えます。

 「《中野の父》という名の図書館だ。」(「謎の献本」p.216)

 このくだりを読んでる時、私は何かの本でアラン・コルバンが言っていたことを思い出していました。コンピューターの時代では、自分が行ったような研究はもうできないのではないか。アラン・コルバンが依拠した資料が役所に残っていた紙だったことから派生した話でした。「中野の父」もネットを検索するのではなく、自分の蔵書を出してきて娘に話をしています。その姿が重なってくるとともに、ネットを検索するという方法が「自分の頭で最初に考えたことが、そのまま書いて」ないテキストや考えに出会う可能性はどのくらいあるのだろう、と思考がそぞろ歩きをはじめます。

 そうやってこの連作短編の背後や下地に膨大な書物がある(北村薫さんの本なので当然そうなのですけれども)雰囲気を感じながらウンベルト・エーコへと連想はつながります。

 私はウンベルト・エーコの著作をひとつも読んだことはありません。でも、彼の訃報に接した時のことはよく覚えています。人間は必ず死ぬんだ、とぼーっと思っていました。博識な人、書物に詳しい人、そういった人もこれまでにたくさん亡くなってきたとは思います。人間には寿命があるということも分かっています。それでも、ある閾値を超えた存在は生き続けるのではないかという漠然とした感覚を持っていました。

 「お父さんの時間は、今、何時頃なんだろう。」(「数の魔術」p.273)

 人生のたそがれ時を考える娘の姿を読んでいて、私は著者である北村薫さんのことを考えていることに気づきました。だからウンベルト・エーコのことを連想していたのだとも。

 以前の著作で北村さんは、自分の人生の時間は限られているから何でもかんでも新しい本を読むことをしない。評価の定まったいい本を読みたいという主旨のことを書かれていました。

 私は作家にこだわった読み方をする方ではないと自分のことを思っていました。でも、『中野のお父さん』を読みながら、近年、北村薫さんの新刊が出る度に感じていた焦燥感に似たようなものの理由が分かりました。

 新刊がもう出なくなる時がいつかは来る。

 出典を忘れましたが、「老人がひとり亡くなることは図書館がひとつ失われることだ」という主旨の言葉を思い出します。