北村薫『野球の国のアリス』講談社文庫

 「投げられるから、しあわせ。コールドゲームなんて嫌だ。―もっともっと、投げていたい。」(p.204)

 主人公アリスは小学校卒業までの人生を野球に捧げてきたような少女です。男の子であったならば、中学・高校あるいはもっと先まで「公式」の野球人生を歩めたかもしれない。女の子であっても、野球を続けていく道はあるのかもしれない。でも、多くの男の子たちが見通せる未来としてのそれとは違っている。アリスは超小学生級のピッチャーでした。実力のある者が自分の力ではどうすることもできない(と思われる)理由でその道を捨てなければならない現実とどう折り合いをつけるのか、読みながら私の関心の一つはそこにありました。

 題名が示唆するように、お話の展開や設定、言及からはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』が下敷きになっていることがうかがえます。鏡の向こう側、いろいろなものが逆になった世界でアリスは計らずもマウンドに立つこととなります。

 「鏡の向こうだから、おかしなこともありなんですよ。こっちから見たら信じられないようなことが」(p.228)

 まっとうなピッチング、きちんとした野球を見せつけることでアリスたちが異議を申し立てようとした「おかしなこと」は鏡の向こうにだけあるわけではない。

 『野球の国のアリス』は元々、YA向けシリーズの1冊だったと記憶しています。読者対象としては子どもたちが想定されているはずです。自分がYAくらいの年齢だったとして、お話の展開を追いながら「おかしなこと」が鏡の「向こう」に設定されていることで逆に、鏡の「こちら」はおかしくないという前提を強化されてしまうかもしれないな、と思いながら読んでいました。

 ただ、本編の前に置かれた北村薫さんのメッセージのような箇所を読むと、仮にそういった強化機能が働いたとしても、それも後になって分かってくる「わからない」もの達であって、否定されるものではないのかもしれないと思えてきます。

 「自分が楽になるのはいいけれど、そのせいで人が苦しむなんて耐えられない。アリスはそういう、まともな考え方をする子だった。」(p.109)

 こんな考え方を読みながら、楽になったほうがいいじゃん、そんな考え方はまともなんじゃなくてバカなだけ、と思う子もきっといると思います。でも、そんな子だったとしても、後になってその「まともさ」が分かるようになるのかもしれない(し、分からないままかもしれない)。

 最終回、アリスとキャッチャーのやりとりはとても良かったです。試合の勝敗に対する計算と本当に大事なものを得られるかどうかに対する計算は違ったものになる。誤った方程式を立てて迷い込んでいる自分を助けてくれるのは、やはり友人という存在なのだなと思います。

 そして、ウサギ役の存在。ルイス・キャロルのアリスが下敷きになっているので当然ウサギさんも登場します。彼の存在は、逃げることしかできなくても抵抗する必要はある、そして、時が経てば正攻法で対峙できるようになるかもしれない、そんな可能性をそっと教えてくれます。

 神はサイコロに細工をすることもある。

 「世の中に本当に必要な笑いは、見下す笑いじゃないって教えてやりたいんです。」(p.138)