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上橋菜穂子『隣のアボリジニ』ちくま文庫

本の感想

 アボリジニという言葉にはじめて触れたのは、子どもの頃の教科書に載っていたエアーズロックの話題ででした。そして、『裸足の1500マイル』という映画を観た時に、子どもを連れ去る政策に何かを思いました。

 でも、この本を読んだのはそういった流れとは別のもので、『精霊の守り人』から始まる守り人シリーズなどで有名な上橋菜穂子さんの書かれた文化人類学の本だった、というのが大きな理由です。逆に同じ話題でも上橋さんの著書でなければ読まなかったかもしれない。簡単に言えば、ミーハーなだけです。

 ステレオタイプではないアボリジニの姿を知りたい、それが著者の出発点でした。そして学者の調査としてではない形で彼らの姿を知るために学校教育の支援員としてオーストラリアに向かいます。フィールドワークの一環として接することがインフォーマントを傷つけるのではないかと危惧する著者は滞在の目的をなかなか同僚のアボリジニに打ちあけられません。葛藤の末、調査目的を告げだんだん親しくなっていく著者とアボリジニたちですが不安なことがありました。

 「見えなくてはならないものが、自分には、見えていないのではないか・・・。それが、不安だったのです。」(p.44)

 おもしろい、という言葉を使うと語弊がありますが、私はここが面白いところだと思いました。アボリジニ像としてステレオタイプを避けたい、カルチャーショックを方法のひとつとして使う(p.28)文化人類学的な調査を行おうとする著者が、アボリジニとの会話の中でカルチャーショックをそれほど感じないことに戸惑っている。これは、文化人類学の調査とはこれこれこういうものだというステレオタイプに沿っているように見えます。アボリジニというステレオタイプを避けようとしているのに、文化人類学というステレオタイプには嵌まっているように感じられます。実際には、関係が深まっていくにつれてショックを受けるようになっているのですけれども。

 この本の中で触れられているアボリジニが受けた仕打ちや、怠惰さ(とされるもの)への批判の理屈を読んでいて私は最近読んだ別の本の中に書かれていたことを思い出していました。

 例えば、白人がアボリジニを雇わない理由として葬儀への参加を理由とする欠勤が多かったこと(p.117)。『寺院消滅』という本を読んだ時に感じたことですが、仕事を休めない(と本人が思い込んでいるだけだと言われてしまう場合もありますが)ことが冠婚葬祭を簡略化させる圧となる、ビジネスや経営の論理が文化や地域の生活を変えていく現象を思い出します。

 また、「平等な」市民となることでそれまでの不利な条件での労働者でいられなくなった挙句、牧場の中にある自分たちの聖地へ行けなくなったという話(p.142)。小川洋子さんの『密やかな結晶』に出てくる「消滅」という現象を思い出します。物理的には同じように存在しているのに、意味合いを変えられたために触れることができなくなる。フィクションの中の存在だと思っていたけれど、「消滅」と実質的に同じことは起こりうる。

 『密やかな結晶』自体、アンネ・フランクをはじめとする逃亡を余儀なくされたユダヤ人の生活を下敷きにしているので、そこから現実とのつながりを見てとるのは、何を今更という気もしますが、そう思います。

 「だれかの肖像を描く作業は、自分の目が見ているものを、なぜ、そう見えているのかと疑ってみる必要のある作業です。」(p.20)