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多和田葉子『溶ける街 透ける路』日本経済新聞出版社

 この本は森まゆみさんの『路地の匂い 町の音』と続けて読みました。町について書かれた本、という点では共通していますが、多和田さんの本の方は身構える必要がありませんでした。それは、森さんの本が住んでいる場所について書かれているのに対し多和田さんの方は主に訪ねた場所について書かれているからかもしれません。外の人の視線で文章についていくことに後ろめたさをそれほど感じません。

 「まだ引っ越しのダンボール箱の積み上げられた部屋で、わたしはとりあえず読書に逃げる。」(「ベルリンⅠ」p.66)

 もっとも、何かを放っておいて読書に逃避しているのでは、という後ろめたさは常に付きまとっているのですけれども。いつもは忘れたふりをしているそんな気持ちも本文のちょっとした箇所からチクチクと痛みはじめます。

 「痩せて地味ながら、がんばりのききそうな感じの人で、愛想はないが親切だった。」(「ヴュンスドルフ」p.104)

 古書店の店員についてこんな風に形容しています。そこで私は立ち止まります。愛想はないけれど親切な人とはどんな人なのだろうと。無愛想な人を親切だと思うためには、どんな条件が必要なのでしょうか。「ヴュンスドルフ」という章を全部読んでも分かったような分からないような気がします。ただ、この多和田さん自身の経験を離れて考えてみて、愛想がなくても親切さというのは伝わるのだろうかと自分の中で継続審議中の疑問がまたひとつ増えました。

 「全く苦労しないで山の上に出てしまっていいのだろうかと、わたしはなんだか後ろめたく感じた。」(「チューリッヒ」p.89)

 多和田さんの文章を私は安心して読んでいけます。それは、最初に言ったように行先について書かれているからという理由の他に後ろめたさを感じるツボのようなものが似ているからだと思います。(ちなみに、似ているかもしれないと思うこと自体、おこがましさに似た後ろめたさを感じてしまいます。)そんなツボは他の箇所でも書かれています。

 「死者の数を挙げる自分自身に納得できないものを感じるのは、死者を数として捉える視線そのものに、死なないですむ者の奢りが感じられるからかもしれない。」(「アウシュヴィッツ」p.193)

 数字としての死者と言えば、高千穂遥さんのダーティペアシリーズで大勢の人が亡くなる過失の記述をたった一行で済ませてしまう例が思い浮かびます。それがいいという方もいるようですが、私は馴染めません。

 「わたしたちの通貨は原始時代と同じで貝殻、または貝殻のような言葉だけなのかもしれない。」(「サン・マロ」p.134)

 そして多和田さんと言えば、ダジャレ、ではなくて言葉の人というイメージがあります。なので「あとがき」に「最近偶然行っていないモスクワ」(p.260)と書かれていると、「偶然」が「全然」の誤植なのか何か意図を持って本気で「偶然」という言葉を使っているのか分からなくなります。「偶然行っていない」という言い回しがぴったりくる状況にそのうち出くわしそうな予感がしてきもします。

 最後に、ダジャレからの連想ゲームですが、本書のタイトルにある「路」という字から吉田修一さんの『路(ルウ)』という本のことを思い出し、「溶ける街」の「溶ける」と「ルウ」という音の繋がりからカレーへと連想が続いて、『溶ける街 透ける路』という言い回しが持つ響きと相まって『昨夜のカレー、明日のパン』がはす向かいにあるような感じを受けます。