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森まゆみ『路地の匂い 町の音』旬報社

 この本は「海の向こうの権力闘争より、隣の人の幸せ不幸せの方が大切なことなんじゃないだろうか。」(p.2)と思ってしまった著者が、仲間とともに雑誌を発行している地域によせて書かれたエッセイが中心となっています。

 「『あんた、なんでこんなことを熱心に調べてんの』という質問がいちばんドキッとする。」(p.96)

 乱暴にまとめれば、古い町が失われることを善しとせず、生活も含めた町並みが残っていくことに価値を見出す姿勢、それが書かれていると予断を持てる本をどうして自分は読むのか。読者としての私は、この自問に再び出会います。

 「『町を見る』のに書物から入るのはいちばん弊害が多く、いちばん楽しみが少ないのに、多くの郷土史家はなぜかお勉強から始めてしまう。」(p.94)

 もしも自分も古からあるものを残していくことを善い事だと思い、そうであるべきだと考えるのなら、本来やるべきことは聞きたいことを言ってくれる本を読むのではなく何か別のことなのではないか。著者にとっての雑誌づくりに相当する何かへ向かうべきなのではないか。読んでいる間中、ずっとそんなことを考えてしまいます。

 古いものが大切だと自然に思えるのは、自分がその外にいるからであって、思えること自体が部外者であることのお気楽さを示しているようにも感じられて息が詰まってきます。

 でも、著者が「はす前」という言葉について述べているくだり(p.263)や縁側のある家について書いている箇所(p.294)を読んでいて少し空気を吸えたような気がしました。それは、「はすむかい」という言葉に自分が馴染みがあり、かつて縁側のある家に住んだこともあったためです。

 当事者ではない自分が価値判断を下してしまうことに後ろめたさを感じるけれども、これは言葉にするのが難しいけれども、自分が本当に当事者か部外者かということではなくて、視点としてそのもののことを知っているという意味で当事者的であると同時に部外者のような見方もできてこそ、その両方が揃うから大事だと思えるとしたら、お気楽(フリーライド的)な視点も一概に否定できないような気がしてきます。

 ダメな部分も含めて自分である、というような。なんて、陳腐な例えですね。

 「多いものを探すのは簡単だけれど少ないものを探すのはむずかしい。」(p.92)

 いつものようにぐだぐだぐるぐると同じところを思考は行ったり来たりしますけれども、少ないもの、無いものに気づけるようではありたいと、少なくともそうありたいと思います。