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G・K・チェスタトン『ブラウン神父の秘密』創元推理文庫

本の感想

 シリーズ4巻目となる本作には「ブラウン神父の秘密」「大法律家の謎」「顎ひげの二つある男」「飛び魚の歌」「俳優とアリバイ」「ヴォードリーの失踪」「世の中で一番重い罪」「メルーの赤い月」「マーン城の喪主」「フランボウの秘密」が収録されています。

 「あなたがたが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分にはとてもそんなことはできないと思うからでしょう。わたしが犯罪を恐ろしいと思うのは、自分もそれをやりかねないと思うからなのです。」(「フランボウの秘密」pp.276-277)

 このシリーズをここまで読んできて私には依然として分からないことがありました。フランボウというのは、最初の巻『ブラウン神父の童心』に収められている最初の方の話数でブラウン神父と渡り合った大泥棒です。お話が進むにつれて彼は改心し探偵となり、ブラウン神父の親しい友人となっていました。

 フランボウのブラウン神父への好意は「ブラウン神父の秘密」で彼が神父の到来を待ちわびている様子からも窺えます。私の疑問は、なぜ稀代の大泥棒がブラウン神父に感化されて心を改めたのか、ということでした。

 フランボウに限らず、ブラウン神父は人から好かれる人物だとシリーズを通して描かれています。そういう人物であっても、真正の悪を転向させることはできないのではないか。いや、魔女裁判での理屈、拷問を耐えられたのならそれは魔女である証明であって、逆に拷問に耐えられず自白すれば同じく魔女だとされる、それと同じように完全な悪というものがあるとしたら、それは悔悛することなく改心しないことによってその存在が明るみにでるのかもしれない。だとしたら、単純にフランボウはそこまでの悪人ではなかったということなのでしょうか。

 いずれにしろフランボウが行いを改めた理由が本人の口から語られており、私の疑問は形の上では「分かった」と言えるようになりました。

 「ただ、ブラウン神父だけが、わたしがなぜ盗みを働くのかその訳を知っているとおっしゃいました。」(「フランボウの秘密」p.278)

 表題作「ブラウン神父の秘密」で神父は記者から事件を解決できる秘訣について問われています。

 「わたしには方法がない」(「ブラウン神父の秘密」p.13)

 「つまり、あの人たちを手にかけたのは、実は、このわたしだったのです」(p.15)

 神父は犯人や犯罪の外側から見ることで真相にたどり着いているのではない。内側から、自分自身が犯人として、いや、犯人の中にもいる「それをやりかねない」自分を通して真実を見ている。その姿勢が人に安心を与えて信頼を得るのかもしれない。

 以前の話数の言葉を借りれば、神父にとって「他人の聖書」であるところの「自分の聖書」を読んでくれる(それに賛同するかは別として)から人に好かれるのかもしれません。

 「考えをしりぞけるにしても、ブラウン神父はこれを頭から問題にしなかったのではなく、りっぱに問題にしてくれた。オパールの考えに同情がなかったのではない、同情しながら同意しなかったのである。」(「顎ひげの二つある男」pp.67-68)

 「わたしはいいかげんな妥協をしないプロテスタントが大好きです。」(「マーン城の喪主」p.246 ※ブラウン神父はカトリックの神父)

 そして、その態度は「マーン城の喪主」で問われる慈悲と許しの性質にも通じています。

 「あなたがたが人の咎を許すのは、その咎が本当の罪ではないとお思いのときに限ってのこと」(「マーン城の喪主」p.266)

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』にあった「To understand is to forgive.」という節を思い出します。