鵜飼秀徳『寺院消滅』日経BP社

 「葬式をやるたびに檀家が減っていくんです」(p.55)

 実家に帰る度にセレモニーホールの増加を感じ、学校の統廃合の話題をよく耳にします。そして目にする葬式の案内。葬儀を取り仕切るのが地元の葬儀会社ではなく、チェーン系列の企業である点が気になっています。

 チェーン企業と認識している時点で、採算がとれなくなれば撤退するのだろうなと獏に感じています。そこで客数の減少によって採算がとれなくなるということが、送るべき人が全て送られてしまった状態、身も蓋もなく言ってしまえばほとんどの人が死んでしまった状態であることに思いがいたった時に考えてしまいます。そういう葬儀チェーンがいなくなった後で葬儀は可能なのだろうか、可能としてそれはどんな形で行われるのだろうか。

 私が子どもの頃、葬式と言えば寺で行われるものだというイメージがありました。それが今は葬祭会館のような場所で行われるのが相場になっている。寺での葬式で感じた厳かさというか何か張りつめたもののある空気は今の葬儀からは感じられなくなった気がします。実際には何も変わっていなくて、感じる自分の側の変化に理由があるのかもしれませんが、そう感じます。

 「寺が専業で食べていくには、少なくとも檀家数は200軒なければ難しいと言われる。」(p.31)

 葬儀が行われる場所と、葬儀屋さんの変化という意味で上に書いたように感じていましたが、お経をあげてくれるお坊さんや寺については特に感じることはありませんでした。でも、住職も人間で寿命がくれば亡くなる。跡取りがいなければ、その寺は無住になってしまう。

 「消滅可能性寺院の中には、荒廃した庫裏に独居状態で老僧が暮しており、孤独死を待っているような悲惨な状況も少なくない。」(p.7)

 寺が無住になれば、そこの檀家から引き抜きが起こることや、無住寺院のお坊さんを別の寺院の住職が兼ねること、あるいは存続のために移転や改宗まで視野に入れる必要があることを読むと、チェーン店の出店・閉店と似ているように感じられて、従来とは別の仕組みに押し流されているように見えます。

 「寺の貧困が、結果的に民間の葬祭業者を利し、さらに寺が困窮するという悪循環に陥っている。だが、『それはお寺さんが経営努力をしてこなかったから。寺がなくなっても困らない』という冷めた人は多い。」(p.171)

 葬式に関して私が漠然と感じている嫌な感じは、小売りにおいて「焼畑商業」と言われることもある流れと同じことが起こるのではないか、そしてそれには法事の質の変化(劣化)も伴うのではないかというイメージに起因しています。

 単純に(その実、何に担保されるわけでもない)「古き良きもの」がビジネスの論理と同じものによって失われていくことが嫌だという懐古趣味なのかもしれません。

 「その束縛を、面倒と考えるか、貴重なネットワークと考えるか。それはその人の考え方次第なんじゃないでしょうか。」(p.114)

 実際、自分自身が「古き良きもの」と想定しているだろう地域の繋がりや付き合いのようなものは面倒なものだと正直に言って感じると思います。

 なくなったり変わったりしてはマズいのではないかと感じているものを私は自分自身で面倒なものだと思っている。そんな外聞をはばかる困った状態に気づかせられた本です。