広島市現代美術館(監修)『路上と観察をめぐる表現史:考現学の「現在」』フィルムアート社

 「世の中には、こういうことを面白いと感じる人と、何とも思わない人の二種類しかいないわよね。」(加納朋子『スペース』創元推理文庫刊 p.67)

 路上観察というものに興味をひかれる理由をずっと考えています。結論から言えば、路上の何でもないものを「何でもないもの」以外の視点で捉えることができれば、そうできる自分のことを特別視できるから、という自己中心的な理由からだと思います。

 松原始さんの『カラスの教科書』や三上修さんのスズメに関する本を面白いと感じるのも似たような理由からです。カラスやスズメは身近な鳥だけれど、実はよく知らない。よく分からないものを知っていくという探究の対象が近くにあるのに気づいていない。ありふれたものこそが特別である、という風に価値の転換を感じたいのだと思います。

 この『路上と観察をめぐる表現史』に下道基行さんのbridge(http://m-shitamichi.com/bridge)という一連の作品が紹介されています。本来、ただの板でしかないものなのに、側溝に渡されることによって「橋」となり「つなぐもの」になっている。この本には赤瀬川原平さんが名づけたトマソンについても触れられていますが、トマソンが使用目的を失ったモノであるのに対して下道さんが写真に収めているものは、「普通の」用途とは別の機能を果たすために使われているモノです。「本来の」意味とは別の意味を持ってそこに存在している点で共通しています。

 そしてこの板を橋と捉える視点は、鈴木康之さんの作品と感覚が似ている気がします。私が鈴木さんの作品を面白いと思う理由はそれなのかもしれません。

 また、路上観察学会のキー概念のひとつに「笑い」があったそうです(p.133)。ここで私は岸政彦さんの『断片的なものの社会学』に書かれていたことを思い出します。

 「少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。」(『断片的なものの社会学』p.98)

 こうあるべきという規定から逃れる術として笑うという方法がある。陳腐なものに特別性を見出し、ありふれたものが果たしている別の意味合いに気づく、それもまた自分の中に自由な部分を確保することかもしれなくて、路上観察が気になるのだと思います。

 「観察者は科学者ではない。絶対不変の真理を追究する者ではない。観察者は都市を渉猟し、その眼差しの軌跡で詩を綴る。」(p.45)