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ピーター・ヘスラー『北京の胡同』白水社

 「アナタ、この世に、そんな女が居るとは信じられないって思いましたね、今」(木皿泉『すいか』1 河出文庫 p.52)

 胡同(ふーとん)が中国の路地のようなものだと聞いた時から、この本の題名に対する印象は固まっていました。開発によって失われていく「古き良きもの」。外国人である著者の視点でそれらを見ることによって変遷がより際立ってくる。そんなノスタルジアを感じられる本ではないか、そう思っていました。

 でも、読んでいて私が出会ったのは、そんな先入観から外れることばかりでした。

 まず「長城を歩く」という稿では、万里の長城をフィールドワークする在野の研究者。荒木優太さんの『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍刊)という本のことが気になっていることと勝手にシンクロニシティ(『勝手にシンドバッド』に対して『勝手にシンクロニシティ』という歌がどこかにあったりしないかな、冗談はさておき、)を感じてしまいますが、学会にも属さずに黙々と研究をすすめる人の実例を目の当たり(読んでいるだけなので語弊が若干ありますが)にします。

 「こうして『長城』は『偉大な壁』と同じ意味を含む呼称に、つまり建てられた時代や建てた王朝に関係なく、北の要塞すべてを含む用語となった。」(p.52)

 自分自身、著者が指摘するように「万里の長城」というものを一時に造られた一続きの建造物だと思っていたので、そうではない視点からの地道な検証をすすめる「研究者」としての在り方に心を打たれました。

 また、「車の町」でのテストドライブ。アメリカ式の路上テストを中国人に教えたい知人の通訳として著者は同じ車に乗りこみます。

 映画『TAXI』の暴走シーンを思い出させる記述を読んでいる内に、車にとって冥利につきる運転手とはどういう人なのだろうと考えていました。多分、普通のドライバーが日常生活の中で運転していて車の性能の限界を試される局面はあまりないと思います。また、「普通の」ドライバーでは、運転しながら不都合に気づけないと思います。

 そうやって考えると、日用使い以上の機動が要求される局面でどうなるかを確認してくれる職人のような人がいてこそ安全というものが守られているような気がしてきます。

 そして、自分の身の回りの製品で使用用途に対してオーバースペックなものの典型であるPCについても、もっとハードの容量をガンガンに占めるソフトでメモリを限界まで使い回すようなユーザーの方がPCも「嬉しい」のかな、と考えます。

 最後に「中国のバルビゾン派」に登場する人たち。

 「この町には現実主義者がたくさんいたし、探究者もかなりいた。だが、みな正真正銘の日和見主義者だった。」(p.269)

 グローバル化という言葉が暗にもつ末端労働者の搾取というイメージをこの町の人たちは否定すると著者は言います。気楽に仕事をしていると。

 ここで私は、冒頭で引用した木皿泉さんによる脚本のセリフを思い出していました。

 「アナタ、この世に、そんな女が居るとは信じられないって思いましたね、今」(木皿泉『すいか』1 河出文庫 p.52)

 胡同という言葉から自分が感じるイメージを起点に私はこの本の中に居るはずの人たちを想定してしまった。でも、実際に自分が読んだのは居るとは思っていなかった人たちのことでした。そして最後には、失われる古き良きもの(を惜しむ)というイメージと真っ向から対立する姿勢に出会った。

 最近、チェスタトンのブラウン神父シリーズを読みながら一貫性ということについて考えてしまう自分に対してたくさんの待ち伏せがこの本には潜んでいたように思います。そして、北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』のことをまた思い出します。