G・K・チェスタトン『ブラウン神父の不信』創元推理文庫

 「どちらか一つになさい。無法なら無法をどこまでも、遵法なら遵法を徹底して公平に貫くのが、物事の筋道というものではありませんか」(「天の矢」p.76)

 以前、『パンプキンシザーズ』というマンガを読んでいて次のようなセリフがありました。

 「悪を討つというのなら それは正義ではなく″機能″として討つべきだ」(14巻 p.46)

 この言葉を読んだ時に思ったのは、このセリフが発せられた時に討つべき対象は市民ではなかったけれども、市民が悪になったときには迷いなく討つのだろうか、ということでした。

 自分の中にある価値判断の基準のひとつとして一貫性の有無があります。自覚もはっきりしておらず、場合によっては柔軟に対応してもいいのではないかと思っているつもりでいるのに、結局は一貫しているものを善いと思う傾向がある。だから、ブラウン神父に一貫性の潔癖さを見てとれるこのシリーズを面白がれるのかもしれません。

 (これはブラウン神父のセリフではありませんが)

 「あなたがたは無神論者であることをうれしがっていられるようですが、だとすると結局、あなたがたは信じたいと思うものを信じているにすぎぬのでしょう。」(「ムーン・クレサントの奇跡」p.121)

 つじつまが合っていればそれでいいという詰めの甘さを許さない姿勢。

 「ブラウン神父の復活」という話数では、生きかえりという奇跡を体現した人物になることを潔しとしません。

 「死ではなく不名誉から救われたのです」(「ブラウン神父の復活」p.32)

 そんなブラウン神父のことをある登場人物は仕かけた側が想定した「世間一般」の人がとりうる反応から逸脱する稀有な人物だとして感銘を受けています。

 そういえば、『刑事コロンボ』のある話数にも似たようなことがありました。犯人の自白を引き出すためにコロンボ警部はある策略をめぐらします。見事に嵌めることに成功した警部はクライマックスで犯人にこう説きます。あんたは人間がみんな金で思い通りになると思っていた。でも、そうでない人間もいるんだよ、と。

 筋が通らないことをよしとしない姿勢は「ギデオン・ワイズの亡霊」でも真相へ至る階となります。

 「犯しもしなかった罪がゆるされるなんてことになったら、とんだことだ」(「ギデオン・ワイズの亡霊」p.300)

 科学と宗教は対立するものなのでしょうか。仮にそうだとして、合理主義や懐疑主義が科学に含まれるとしたら、それらを規範としてもつ科学を信奉しているはずの人が中途半端にしか従わないために発生する誤謬を追及するのが神を信じる神父である点が引っかかります。

 「人が神を信じなくなると、その第一の影響として、常識をなくし、物事をあるがままに見ることができなくなる。」(「犬のお告げ」p.112)

 神を信じなくなることが理性の働きを曇らせる、というのはどういうことなのか。

 The Flight from Science and Reasonという本の題名をふと思い出します。