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瀬戸内寂聴『場所』新潮社

 ピーター・メンデルサンドの『本を読むときに何が起きているのか』という本の中に確か、読んでいて遊歩道を歩いているように感じる本があるという主旨の箇所があります。

 先日、荒川洋治さんの『忘れられる過去』を読んでいて、瀬戸内寂聴さんの『場所』について触れている文章に出会いました。各章の題として場所の名前がとられているというその本は、読んでいる時に歩行の速度で移ろっていく景色・街並みを見ることができるのではないかという予感を抱かせるものでした。

 「昔関わりのあった場所に行き、昔と今の状態を自分の目で確かめる時、その土地が抱きつづけてきた記憶が、なまなましく顕ち表われて、不思議な力で自分に迫ってくるという現象を、信じるようになったのは、いつの頃からだっただろう。」(「油小路三条」p.104)

 思惑は達せられました。歩行を感じたくて、歩くように読めると予想できる本を読み、結果としてその土地をゆっくりと味わうように歩いたかのような感覚を得た。でも、同時にこれでいいのだろうかという漠とした不安も感じていました。

 瀬戸内寂聴さんのイメージはTVで話しているのを見た時のもので、あまり落ち着きがあるという印象を受けませんでした。でも、実際のこの本の文章は落ち着いているように感じられました。しゃべり方と文章が違うことは往々にしてあるとは思いますが、しゃべっている様子と文章から受けた印象が正反対で、予断を持ってしまっていた自分のことを反省します。

 「私はモダンな白い新しい家を見上げた。」(「多々羅川」p.46)

 そして、それは文章に表れている街と実際のそれとの関係へ連想を広げます。「モダンな白い新しい家」とはどんな家なのだろう。

 「不倫ということばはまだはやっていなかった。私の額に貼られるレッテルは不貞の二文字の筈であった。」(「名古屋駅」p.92)

 話は脱線しますが、若い流行歌手を形容するときに例えば「中高生の絶大な人気を集める」といった風な言葉が使われる場合があります。それは、その歌手の歌によって中高生の気持ちや抱えている物が象られたということなのかもしれない。自分の中にあるものでは形を与えることのできないものを容れることのできるものを与えてくれる存在が必要とされるなら、中高生ではない人を代弁してくれるのは何なのだろうと考えます。それは別のジャンルにあるのかもしれないし、もしかしたら、もう「子ども」ではない存在は、象る術を自分で持っているから代弁者は必要ないということなのかもしれない。いずれにしろ、ある言葉で形容されるものがしっくりくる場合とこない場合がある。

 「モダンな白い新しい家」は瀬戸内さんより若い世代だったらどう形容するのだろう、あるいは建築からの連想ですが例えば森博嗣さんが同じものを見てもそれは「モダンな白い新しい家」なのだろうかと考えます。

 この『場所』を読んで私が歩きながら見たと思ったものは、瀬戸内さんの言葉で象られた景色や街並みでした。

 「書いていない余白に、もっと大切なことがいっぱい埋められていたと思う。」(「名古屋駅」p.91)

 私は歩くことが好きです。でも、歩くことへの嗜好が逆に見えなくしているものもあるとしたら、歩くことによって達せようとしていることがそのこと自体によって損なわれている可能性がある。

 思い出のある場所へ行って気づく変化はかつてあったものが無くなっていること。でも今そこにあるものは分かっていない、「見えて」いないのかもしれない。歩行によって気づけることがあるという思いの中には、ゆっくり見ることで「本当の姿」が見えてくるという前提が潜んでいます。それは間違いではないのか、『場所』を読みおえてそう思っています。