読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

森山高至『非常識な建築業界:「どや建築」という病』光文社新書

本の感想

 「どや顔を見せられた誰もが心のうちに芽生える嫌悪感は、ある種の建物を見ても同じように発動します。」(p.70)

 著者の問題意識のひとつは建築を「芸術・アート」とカテゴリし、自己表現の手段としようとする建築家の姿勢にあります。

 「『建築に詳しい人が推す案を、建築に詳しくない人が追認する』という図式は、おそらく多くの審査会の現場で見られる光景です。」(p.46)

 そして、そういった「表現建築家」(著者の造語)は建築・施設を利用する人の方を向いて仕事をしていないとされます。こうした利用者不在の状況が表面化したケースとして新国立競技場について触れられています。

 利用者する人のことを考えない建築家、ということを聞いて私は長谷川逸子さんのことを思い出していました。というのも以前、実川元子さんの『建築家長谷川逸子』理論社刊)という本を読んだ時に長谷川さんは住む人のことを考えて建築を造る方だという印象を受けていたためです。

 もうひとり、隈研吾さんのことも『負ける建築』のために思い出していたのですが、隈さんについて著者は、本書の105頁に「M2」というビルについて触れながら「目立つ建築」への転向があったことを訝しんでいます。

 「私が最も憂慮しているのは、建設現場を指揮する工事監督と彼を支える人材の質が年々低下していることです。」(p.182)

 また、著者はゼネコンから下請けに至る現場に派遣労働が増えていることを危惧しています。派遣労働者の能力が低いと言っているのではなく、派遣という形態のために知識や経験が蓄積・継承されていかないことを危険視しています。

 それは、利用者不在のまま建築をつくる「表現建築家」と構造は似ているように見えます。「表現建築家」が実際に使ってみて不具合のある建物を造って平気でいられるのは、自分の評価に響かないからだとされます。彼/彼女を評価するのは利用者ではなく、仲間の建築家たち。仲間内でイケている「作品」を作ることが大切。

 経験や知識に継続性がなくなって、その建物を使う人に不利益が出たとしても、ゼネコンの評価へ影響はなかなかない。ふと、最近でた『時間かせぎの資本主義』(ヴォルフガング・シュトレーク著、みすず書房刊)という題名を思いだしましたが、逃げ切れればそれでいい。自分に責任が及ばなければそれでいいということを何故出来るのかと素朴に疑問に思います。

 「まだ大事故や大問題にまで発展していないのは、現場に携わっている人々が、持ち場を必死で支えているからです。」(p.205)

 エンドユーザーを人質にして必死になることを強要されているのが現場なのか、とも思ってしまいます。

 最後に、本書の最終章では槇文彦さんと青木茂さんを肯定的にとりあげています。私はお二人とも名前だけは知っていました。青木茂さんはリファイニング建築というキーワードとともに。それが何か分かっていないのに。でも、例えば地元にどんな工務店があるかとか、どんな大工さんがいるかとか、そういったことを全然知らない。森山さんの書き方だと槇さんも青木さんも「表現建築家」ではなさそうですが、有名な方は知っているのに身近な所で建築を造っている人を知らないというのは、「表現建築家」を生み維持している仕組みに自分も加担しているように感じられます。