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G・K・チェスタトン『ブラウン神父の知恵』創元推理文庫

 本作は『ブラウン神父の童心』に続くシリーズ2作目で以下のお話が収録されています。「グラス氏の失踪」「泥棒天国」「ヒルシュ博士の決闘」「通路の人影」「器械のあやまち」「シーザーの顔」「紫の鬘」「ペンドラゴン一族の滅亡」「銅鑼の神」「クレイ大佐のサラダ」「ジョン・ブルノワの珍犯罪」「ブラウン神父のお伽噺」。

 「自分によくわかっていることをわからない振りをして見せることが神父にはなかったのである。」(「ジョン・ブルノワの珍犯罪」p.293)

 このシリーズを読みながら私はブラウン神父が気になるのは何故なのだろうと考えていました。バーナード嬢(本名:町田さわ子)に似ているから・・・、なのか?

 「世の中には、/知っているのに/知らないフリをして/他人を試したりする/物知りで頭のいい人が/います。/そういう人間と/比べたら/私は町田さわ子の/ほうが好きです。」(施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』2巻 一迅社 p.84)

 「あんたという人は、みずからのうちに悪徳というものをもったことがないんじゃありませんか」(「器械のあやまち」p.134)

 あるいは、人間の中にある悪い部分をきちんと見据えているからなのか。

 「あなたの中にある 清らかな心も

  たまには ぼくみたいなことを思うでしょうか」

               (南壽あさ子「回遊魚の原風景」)

 ブラウン神父はその答えが「思う」であることを多分、知っている。

 あるいは、自らの信じるところに従って毅然としているからなのか。

 「もし悪魔がこれはおそろしいものだ、見てはならぬと言ったなら、断じてそれを見るべきです。」(「紫の鬘」p.187)

 では、そのブラウン神父が信じてるものとは。お話の設定上、ローマ・カトリックの神父となっているのでキリスト教ではあるのですが、前作『ブラウン神父の童心』の中にこんなセリフがあります。

 「あんたは理性を攻撃したではありませんか」

 「それはよこしまな神学でな」(「青い十字架」p.41)

 ブラウン神父が言う「理性」がどういった性格のものなのか、よくよく考えてみる必要はあるのかもしれませんが、理性の側についていることは確かで、そういった特徴から気になっているのかもしれません。

 私がブラウン神父が気になるのは、物事に対してそういった態度で臨みたいからかもしれず、でも、彼のように状況に対峙するとしたら、現実には身の危険に晒されることが多くありそうで、実際、用心棒のような友人がいなければブラウン神父が殺されてしまっていたかもしれない話数もいくつかあり、そうなりたいと思うと同時に現実にはそうなれないのが当たり前、という風に安心したいためなのかもしれません。

 続編を読みながらもう少し考えてみたいと思います。