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アガサ・クリスティー『謎のクィン氏』ハヤカワ文庫

 都筑道夫さんの『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を読んでいてアガサ・クリスティが創作したクィン氏について触れている箇所がありました。記憶によるので正確な語句ではないかもしれませんが、そこで都筑さんはクィン氏のことを「この世のものではない」と形容していました。その表現、そして彼が登場する短編群の紹介から私は自分が福家警部補のお話を読んで感じたことを思い出していました。

 「あなただって、あそこはこの世の果てだと言ったでしょう」(「世界の果て」p.451)

 この『謎のクィン氏』には「世界の果て」と題された話数があります。世界の果ての向こうにはきっと世界ではない場所がある。つまり、世界の果ては終わりであると同時に別の何かのはじまりでもある。境界線は二つのものを分断することによって両者の輪郭をより明瞭なものにする。

 「時間がたてばたつほど、物事をより客観的にとらえることができます。」(「〈鈴と道化師〉亭奇聞」p.99)

 発生から時間が経っているにしろ、その出来事が起こることによってクィン氏は召喚されます。実際に事件を「解決」させるサタースウェイト氏が存在するからこそ彼も出現するようにも見えるけれど、いずれにしろ、世界の果てを横断するクィン氏は事件によって危機に陥りそうな何かの秩序を維持するために現れているように見える。

 この連作短編を読めば読むほど私は自信がなくなっていきました。福家警部補を読んで私は自分が感じたり思ったりしたことを書いたつもりだったけれども、事件を解決する要因が世界の秩序維持という機能を担っているという視点をどこかで仕入れていて、それを思い出しただけだったのかもしれない。

 『謎のクィン氏』の解説を川出正樹さんという方が書かれています。そして解説の冒頭、上遠野浩平さんの『ブギーポップは笑わない』からの引用が置かれています。

 「ぼくは自動的なんだよ。周囲に異変を察知したときに、浮かび上がってくるんだ」(「解説」p.501)

 福家警部補の感想で私もブギーポップのことを連想していました。視点だけではなく、連想するものも似通っていては、過去から続いてきた何らかのものの影響下にあることをどうしても感じてしまいます。

 そうしたこととは別にこの本で印象的だったのが「海から来た男」という話数でした。

 「一個人としてのあなたなら、だれも気にかけないかもしれませんが、特定の場所にいる一人の人間としてのあなたは、想像もできないほど重要なのかもしれないのです」(「海から来た男」p.236)

 サタースウェイト氏はこの話数の中で、自分自身への犯罪を行おうとする人物に遭遇しています。彼は、半ば自分の人生の無意味さを感じていましたが、その出会いによって「想像もできないほどの重要」さに気づきます。ここでサタースウェイト氏が気づいた自分自身の有意味さを導く理屈はどこか最近の本で読んだことがあったような気がします。でも、アガサ・クリスティがこのお話を書いたのは随分と昔のはずです。誰かが誰かの真似をしている、ということを言いたいのではなく、今ここでこの本を読んだことでそういった考えに私が再び接触したことについて考えてしまいます。まるでサタースウェスト氏が時機を得てクィン氏に出会うように私はこの本に出会っているのではないか。

 「彼はそんなひとではありません。ただ、不思議な力を―神秘的なまでの力を持っていて、われわれが自分自身の目で見、耳で聞いたものを、はっきりと示してくれるんです。」(「窓ガラスに映る影」p.77)

 この本が私にとってのクィン氏だとしたら、今、解決されようとしているのは何なのだろうと考えます。

 「物事は解決して初めて、済んだと言えるんだよ」(「〈鈴と道化師〉亭奇聞」p.109)