イアン・ハッキング『記憶を書きかえる』早川書房

 「幼少時のトラウマと多重人格の結びつきは、百年の間にゆっくりと姿を現したのではない。それは、1970年代に、ほとんど何の前触れもなく発生したのだ。」(p.108)

 この本を読みながら、最初の内は社会学構築主義というアプローチのことを連想していました。著者に『何が社会的に構成されるのか』(岩波書店刊)という本があることも手伝っての連想です。

 乱暴な説明になりますが、構築主義とは社会問題などを本質的にそこにあるとするのではなく、議論の参加者などそれをとりまく社会の側がそう見ることによって構成的(構築と構成という言葉の使い分けで色々とあるようですが省きます)に存在するものと捉える立場です。

 例えば、子どもを叩くという行為があったとして、ある社会においてそれは躾けと捉えられるかもしれないし、別の社会では児童虐待とされるかもしれない。ただ、必要なのは、社会によって変わるまなざしを浮かび上がらせるための対象項、この例で言えば「子どもを叩く」という変わらない(とされる)行為です。まなざしの違いを示すために求められる変わらないものについては、本質的な存在を前提として密輸しているようにも見え、それが批判される議論もあるようです。

 この『記憶を書きかえる』でも幼児虐待が登場しており、上で述べた連想に拍車がかかります。でも、

 「私は分析はするが、脱構築する意図はまったくない。」(p.83)

 著者は脱構築するつもりはないと述べています。では、著者がしたいのは何なのか。

 「私が知りたいのは、多重人格という概念がどのように現れることになったのか、そして、それがわれわれの人生、習慣、科学を、どのようにつくり、型にはめたかということなのだ。」(p.24)

 分析はするけれども、判断あるいは政治的な働きかけに向かうつもりはない。

 「慎重な哲学者としての立場から、私は、過去にさかのぼる再記述の多くは、正しいとも、正しくないとも、はっきり言うことは避けている。」(p.301)

 文中、アンスコムという人の行為の考え方に触れられる箇所があります。

 「そこにあるのは、さまざまな記述の下での、ただ一つの行為にすぎないと主張した」(p.290)

 ならば、著者がこの本を著したという行為を統べることができる「記述」とは何なのでしょう。

 「私は多重人格を、宿主を必要とする寄生虫にたとえてみたい。近年、宿主に相当するのが幼児虐待だった。」(p.144)

 ある事象、あるいはカテゴリが生きのびるために寄生するホスト(宿主)があるとしたら、逆に著者の意図に関わらず、構築主義的(脱構築として)にとられかねない分析・記述をホストにして生きつづけようとしているものは何なのだろうと考えます。