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岸政彦『断片的なものの社会学』朝日出版社

 「非常に多数の証言者を得たとき、調査報告は”私”という一人称を捨ててもかまわない」(『井田真木子著作撰集』里山社刊 p.482)

 

 この本がいう「断片的なもの」がどういったものなのか、冒頭部分で挙げられている例がとても分かりやすいです。著者がある調査で取材対象から話を聞いているシーン。インタビューに割って入る形で「犬が死んでいるよ」という聞き取り相手の子どもの声が聞こえてくる。著者とのやりとりはしばらく停止しますが、何事もなかったかのように再開される。社会学の調査で聞き取りを受けているという枠組みからは逸脱している(だろう)飼っている犬の死。世の中には調査に限らずいろいろな枠組みがあって、それぞれで状況による規定がある。

 ここで私が「枠組み」という言葉を使うこと自体、ゴフマンのFrame Analysisが念頭にあるためかもしれない。そして、実際にFrame Analysisを読んだこともなく、ゴフマンの社会学をよく分かっていないにも関わらず、そういった言葉の選択はそこから展開される記述において何が適していて何が逸脱しているのかを規定しているのかもしれない。

 「枠組み」だけではなく「状況による規定」という言い回しを選んでいる時点でミルズの「動機の語彙」論をひきずっています。

 「彼はなにかを『語っている』のだろうか。むしろ、彼は語りにつき動かされ、語りそのものになって、語りが自らを語っているのではないだろうか。」(p.57)

 ある議論の展開として受け入れられると想定するからそういった言葉を「私が」選ぶのか、議論の展開つまり語り自体がそういった言葉を使わせるのか。

 『断片的なものの社会学』の中で著者の「私」に対するスタンスは揺れているように見えます。

 「まず私たちがすべきことは、良いものについてのすべての語りを、『私は』という主語から始めるということになる。」(p.111)

 明示されない主語によって規定される「良いもの」に囲まれていても、「私」たち(「私たち」ではなく)にはそれに従わない領分が残っている。それは例えば笑うこと。

 「少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。」(p.98)

 ただ、「私」をルールや規定への抵抗の契機と見るならば、「『私』をルールや規定への抵抗の契機と見る」こと自体がルールや規定になる可能性もある。

 「『本人がよければそれでよい』『本人の意思を尊重する』という論理が、その当人を食いものにするときに使われることがある。」(p.204)

 そこから逃れる術のひとつはこの本でとりあげられているあるトランスヴェスタイトのブログのように「それについて言及しない」(p.174)という方法なのかもしれない。「『私は』という主語から始めるべきである」と言及せずに、良いものについての語りを実際に「私は」という主語から開始しづける、というような。

 この『断片的なものの社会学』のような本を読むと、私は「それで?」と言う誰かがどこかにいるように感じます。仮説があって、それを実験や調査によって明らかにするタイプでもなく、因果関係によって改善策・対策を主張するタイプでもない。でも、これはうまく言葉にできないのですが、伝えたいことや主張したいこと「自体」に言及することなくそれを示すには、宣言するのではなくて描きつづけるしかなく、だからこそそれだけの分量を持った文章が必要なのだと思います。

 「私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。」(p.240)

 著者がこの本の中で言っているであろう著者の考える「良いもの」は、黒か白か二者択一を迫る向きには煮え切らないものにきっと見える。でも、私はそれがいいのだと思います。

 

 「あなたの逡巡こそがあなたの忠誠心の証し、あなたが人間の尊厳を守ってきた証しなのではありませんか?カール・ミルトン・バーンスタインさん。」(『井田真木子著作撰集』里山社刊 p.488)