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井田真木子『井田真木子著作撰集』里山社

 「ノンフィクション・ライターに与えられる賛辞は、ただ他者の内側に深く入り込みながら、自分と他者も区別し続けられたということにつきる。それ以上でもそれ以下でもない。」(「かくしてバンドは鳴りやまず」p.436)

 井田真木子さんによるノンフィクションを主に集めたこの本を読みながら私はスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんのことを思い出していました。それは、アレクシエーヴィチさんの本を読んでいるときに私が「見ていた」もののためです。

 ピータ・メンデルサンドによる『本を読むときに何が起きているのか』(フィルムアート社刊)という本があります。原題はWhat We See When We Readで人が読書をしているときに「見ている」ものを扱っています。

 アレクシエーヴィチさんのノンフィクションを読んでいる時に私が「見ていた」のは、彼女がインタビューをした相手の顔でした。もちろん、実際の顔や姿を見たことはありません。でも、文章を読みながら私の頭の中に像を結んでいたのは、自分の中で想定されたインタビュー相手の姿でした。いわば、私の目がアレクシエーヴィチさんの目に成り代わって臨場しているような錯覚に陥っていました。

 「私の目は、これ以降、その人の目の中にもぐりこんだり出たりを繰り返して彼が見たかもしれない光景を報告する。」(「かくてバンドは鳴りやまず」p.417)

 この引用部分に至るまで、井田さんの文章を読みながら取材対象と井田さんの距離について私は考えていました。それと同時にアレクシエーヴィチさんを想起しながらも井田さんの文章との違いも考えていました。

 井田さんの文章を読みながら私が見ていたのは、取材対象と井田さんの2人だったような気がします。あるいは、取材対象が見ていただろう風景やインタビューをする井田さんの姿。読者である私が井田さんの目の位置で「見る」画像は殆どなかったと思う。

 例えば、「プロレス少女伝説」の中に中国出身の女子プロレスラーがTVの企画で里帰りをするくだりがあります。その箇所を読みながら私は行ったこともない中国の風景、彼女の故郷の姿をまるで彼女が見ているように「見て」いました。

 あるいは、帯にも採られている神取忍さんの言葉。「”心が折れる”って言葉は、井田さんのインタビューが引きだした」。仮に同じ対象であっても、インタビュアー次第で捉えられるものが違ってくるとしたら。

 アレクシエーヴィチさんの本でも、木村元彦さんでも、たしか取材対象から自分たちの話を聞いてあなたが本にしても、ここの現実は何も変わらないではないか、何のために取材して書いているのかという主旨のことを言われていたと記憶しています。でも、取材者の違いが伝えられるものの違いに直結しているとしたら。

 「人生は劇ではない。しかし100の退屈を積み重ねることが、たったひとつの成功を生み出すことを、若い人間はなかなか理解しないのは事実じゃないか」(「同性愛者たち」p.239)

 ゲイの支援団体の一人が語ったこういった言葉は、取材者が井田さんじゃなくても出てきたのだろうかと考えます。

 「見えない人を死角からつれだそうとする試みは、それほど無謀ではないらしい。」(「プロレス少女伝説」p.181)

 これまで見えなかったものが見えてくる。そして、もっと先までそれを見てみたいと思わせられる本です。