多和田葉子『かかとを失くして/三人関係/文字移植』講談社文芸文庫

 この本は多和田葉子さんの短編集で「かかをと失くして」「三人関係」「文字移植」の三篇が収録されています。

 「第一、痛いのは、爪のくっついている指の〈肉〉であって、〈爪〉そのものではない。」(「三人関係」p.89)

 以前、『言葉と歩く日記』を読んだ際に多和田さんの言葉に対する距離のとりかたを好きだなと感じました。それと同時に私の感じた好きという印象は浅はかなものではないかという懐疑も抱いていました。

 上の引用は「爪が痛い」という慣用句とでも言うべき使い古された表現に対してさえ客観的に捉える視点を同時に持っていることを感じさせます。「本ばかり読んでいる」という言い回しに対して、読むのだから「本ばかり」でおかしなことはないと反論し、読書に時間を割きすぎていることを批判するのなら、「本を読んでばかりいる」の方が正しいのではないか、という感覚に似ていると思います。

 「忘れ物の正体(招待?)が不明のまま、」(「三人関係」p.105)

 一つの言葉や言い回しを使う時に、例えば同じ音をもつ別の言葉や連想される似たような/異なる表現が実際には鳴っていない倍音が聞こえるように聞こえる/読んでしまう状況が度々登場します。上に書いた部分で私は「懐疑」という言葉を使いましたが、その時に自分の中にある複数の視点・考えによる対話(のようなモノローグ)によって「会議」が行われていたという連想が裏で働いていた、と強弁したくもなります。

 多和田さんの近著の題名は『遣灯使』で、遣唐使のダジャレのようですが、最初に書いた自分自身の懐疑とは、「それってただのダジャレじゃね?」という批判に対する免罪符のように勝手に自分の中で使えるためにいいと思っているのではないか、というものです。

 「わたしは慣用句を使って批判されるのが何よりも恐かった。そして慣用句など連発しそうもない人といっしょにいると逆に慣用句ばかり心に浮かんできてしまうのだった。」(「文字移植」p.147)

 ある言葉を使う時、その時々で使用される個別具体的な単語や文法、表現だけではなくその言葉全体(というか、当該の状況で使われていないけれどその言葉に存在する表現など)の影響を受けると思います。例えば、右という言葉を使う場合に「右に出る」という言い回しを連想したとして、右という言葉に「優れている」という含意を感じてしまうような。

 「翻訳をする時もものを考える時もひとりでするしかないのだからわたしは結局いつもひとりなのだと思う。」(「文字移植」p.171)

 言葉を上に書いたように感じながらこの引用部分を読むと本当に「ひとり」なのだろかと考えてしまいます。

 「三人関係」の中で三人関係は三角関係とは違うとされています。

 「三角関係なんて言ってないじゃない、三人関係って言ったのよ。」(「三人関係」p.65)

 その関係はどんなものなのか。1対1が3対あるのか、あるいは2対1なのか。2対1だとして、自分はその2の方に入りたいのか、1の方がいいのか。はたまた、3対0なのか。

 「三人関係」を読み進めて感じるのは、語り手は三人関係を2対1だと思っているようだということです。それも1の部分は虚実を問わない。対1の部分があることで2がはっきりと区分されるような。

 「三人関係」の中で砂漠は3人で行く場所ではない、という箇所があります(p.127)。また、「文字移植」では語り手の行先が1人で行くべき場所ではないとされています(p.141)3以外なので1でもいい、1以外なので3でもいい。でも、1と3が登場して、そのいずれも否定されていることから直接には書かれていない2を私は感じます。「三人関係」と「文字移植」は初出に2年の差がある別のお話なので、こう感じるのは妄想に近いのかもしれません。

 更にこじつけを続けるのなら、「かかとを失くして」で足の欠損部分をプラスチック(ここで読者である私は『プラスチック・ワード』という本のことを連想していることを付け加えておきます)で補うと「歩き方が変わります」(p.54)と言われているように、上に書いたように感じる私に「奇数しかない」というプラスチックが入れられたとしたら、「三人関係」「文字移植」を続けて読む、歩く足取りはどう変わるのだろう、と考えます。