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林真理子『本を読む女』集英社文庫

 題名を見て頭に浮かんだのは自分の母親のことでした。

 「一生、小説や詩の本を読んで暮していけたらいいなあと思う」

 「だったら結婚すればいいじゃんけ」(p.95)

 この部分は、結婚相手の経済力に頼って有閑階級(のような)になればお金の心配もせずに本だけ読んでくらせる、という主旨の部分です。

 本を読むには時間が必要です。人によってかかる時間は違うかもしれないけれど、とにかく読むのにかかるだけの時間が必要です。本を読んでいる姿はそれだけの時間があることを視覚的に相手に示すのかもしれない。

 子どもの頃はそうでもなかったけれど、いつの頃からか姑である祖母の目がある家で嫁である母親が本を読むということのしんどさを考えるようになりました。本人がどう思って感じていたのかは聞いたことがありませんが、もしも祖母の中にある「嫁(母)とはこうあるべきである」という姿と相反していたとしたら、軋轢が生じていたのかもしれません。

 「女の子まで学校にやり、こんな贅沢な本を買ってやったりする。全く何を考えているのか。」(p.10)

 それは女性に限らず男性でも同じかもしれない。本を読んでいる、読む暇があるということ自体が顰蹙をかう材料となる場合がある。家、という枠組みより大きな枠組みで言えば、たとえば国にとって必要・役に立つことではなく、本を読んでいる人間は責められるのかもしれない。

 「いろいろなものを見たくない。見るのはとてもこわい。」(p.150)

 本を読むことと聡明さの間に関係があるのかどうかは分かりません。でも、少なくともこの本の主人公に関して言えば、本が好きで読むということに彼女の賢さが表れていると思います。それと同時にその賢さに含まれる弱さも垣間見えます。

 「自分は好きな道を選べるのかもしれないのだが、それが実は怖いのだ。」(p.168)

 いろいろなことを考えて、理解して言葉として把握できることも内省的という言葉の内に含まれるのかもしれないのですが、それだけでは現実は動いていかない。

 「自分はそういう人間なのだ。勇気も決断力もない。」(p.279)

 繰り返しになりますが、本を読む「から」そういう人間、性格になるのかは分かりません。ただ、そういう性格の人間が本を読むことの中に安住してしまう場合はあると思います。

 「病室で本を読む生活がいちばん合っているような気さえしてきたこの頃だ。」(p.168)

 それを停滞と言ってしまえば、本を読む人間は無益なもので救いがないような気もしてくる。この本の主人公に救いがあったのかどうかは正直言って分かりません(この本は著者の実母をモデルにしているそうなので、その実母に救いがあったかどうかではなく、この小説に描かれている主人公についてです)。

 お話の展開としては、最後の章で主人公が出会った本(とそれを読むことで主人公が至った境地)が救いであると言えるのかもしれないけれど、主人公の人生はそこで終わったわけではなく続きがあり、霧は晴れていないように思います。

 「それがどういうことなのかまだよくわからない。」(p.284)

 そして、本を読むということは「よくわからない」が繰り返し続いていくことのような気もします。もしも、「わかった」という瞬間が訪れたとしたら、もう人は本を読まないように思います。だとしたら、「本を読む女」という言葉は「迷いつづける女」に近い意味を持つのかもしれません。