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荻野富士夫『思想検事』岩波新書

 精神的な苦痛と肉体的な苦痛。どちらもしんどいけれど、想像される痛みの種類が違う。どちらの方が耐えがたいか、とついつい考えてしまいます。それは、手術をうけるときに感じる恐怖に似ているかもしれない。例えば開腹手術と開頭手術。開頭の方が自分の中の「より」大切なものに直に触れられるような印象を受けます。

 当局による取り締まりを受ける場合も同じかもしれません。精神、思想を理由・対象とした取締りには、単純な破壊や傷害(両者を明確に区分けするのが難しいという話は置いておいて、イメージとして)に対する取締りにはない怖さを感じます。

 「一方で、特高警察の暴力があり、一方で、『転向』や保護観察という方策のあったことが、戦前治安体制を強靭なものとしたのであった。」(p.5)

 ジョージ・オーウェルの『1984年』をはじめて読んだ時のことを思い出します。有名な本なので、読むまでに数々の評判、紹介を目にしていました。そして自分の中で形づくられていた『1984年』のイメージは監視社会の恐怖、情報(抽象的なもの)による抑圧の不気味さを感じるものでした。けれども、実際に読んで感じたのはもっと具体的なものでした。主人公が取り調べで拷問される様から感じる生々しさ。生身の肉体が傷つけられていく記述から立ち上がる「肉」、という感じ。パノプティコンの囚人のように監視者の視線を内面化していることの鬱々さではなく、もっと直截的なもの。

 この『思想検事』は思想検察と特高警察という対比を主な軸に組織としての趨勢に焦点を当てています。個別の取り調べやケースについて触れられてはいますが、そのミクロな状態、とりわけ取り調べられる側が感じたであろう雰囲気はそれほどつかめません。そこで生じた個々人の痛みや想いは想像するしかありませんが、そうしたものを生じさせたのは、組織機構の誕生や変遷というマクロな状況で、私はそれに怖さを感じます。

 「検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっていたのである。」(p.98)

 ある時期において捕まえる対象が少なくなりすぎて取り締まる側である自分たちの存在意義が少なくなるおそれが生じたそうです。そこで行われたのは組織の縮小などではなく、検挙対象(とする条件)の拡大だったそうです。これは組織の維持のために捕まえる対象の解釈を変えているように見えて、恣意的な運用に思えます。

 過去においてこうしたものが現実にあった(し、現在にも気脈を通じている)と思うと暗澹としてきます。