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大崎梢『忘れ物が届きます』光文社

 「小さなころには当たり前のように

  守られた幸せを

  今取り返しにゆくの」(Salley『あたしをみつけて』)

 

 ある女の子の話をします。

 幼稚園の頃、その子はとても足が遅かった。組で2チームに分かれて行われるリレー競争では、その子のいる方がいつも負けていました。その子は体が大きかった。縦にも横にも。背が高いのでリレーの順番はアンカーかその周辺。負ける責任をいつも追及され、体形のことでも罵倒されていた。自分にバトンが渡る時、既にそのチームが他のチームから遅れていたということの意味に気づくのはもっと後。そう、負けの責任は彼女ひとりに帰せるものではありませんでした。

 小学生になっても変わらず運動は苦手なまま。体形も変わらず、そのことでイジメにもあっていた。同級生と走っても、倍くらいのタイムがかかった。50m走だったのに。本人も運動面で人並みに自分がなれるとは思いもしなかった。ずっとこのまま多くの人が普通にできることができないままなのだと思っていた。

 ところが、中学生になって何を思ったのか運動部に入ってしまった。強制加入の部活動なら、せっかくだし自分が興味のあることをやってみようと魔が差したのでしょう。少しやる気になったくらいで何が変わるわけでもなく、基礎トレーニングにもついていけず、他の部員が次の練習に移っても、規定の量を走り続けていました。でも、練習によって改善する部分があったのでしょうか、遅いながらも少しずつ速く走れるようになっていきました。

 結局、慣れない運動を続けたせいか、体を壊し運動部をやめてしまいます。部活動が強制加入の学校で数少ない帰宅部となったのです。学校と病院に行く以外は家で寝ているだけの毎日。このままずっと過ごしていくことになるのかと思っていたようです。幸い、症状はそこまでではなく、リハビリの後、普通に生活はできるようになりました。運動もサポーターをつければ体育も支障はありませんでした。時折悪化して休んではいたようですが。

 高校に進学し、時々症状をぶり返しながらも普通に学校生活を送っていました。その学校には校内の陸上競技大会があり、最後にはクラス対抗のリレー競争がありました。陸上部員は競技の公平を期す意味もあり全員運営にまわります。陸上部に所属しない全生徒がそれぞれエントリーした種目で記録を競います。

 3年生、高校生活最後の年でした。リレーを走る生徒は各クラスで速い子を選んでいます。人並みに走れるようになっていたけれど、特別速いわけではない彼女はもちろんメンバーではありませんでした。でも、アクシデントが発生します。個人種目400m走、リレーメンバーだった運動部の子は力尽きてリレーの区間200mも走れない状態になりました。何の因果か繰り上がりでリレーを走らなければならなくなります。とても嫌だった。運動に限らず、それまで選抜されて何かをやるということがなかった。事情は分かっているとはいえ、自分のせいで負けるのは嫌だ。自分が走るよりも、呼吸の戻らないあの子が走った方が速いのではないか、とも思ったそうです。自分は選ばれた人たちを応援する側にずっといるはずだった。

 でも、結局走ることになった。バトントスの練習も本番前に急遽しただけ、中学校の体育の時間に習ったことを頭の中で反芻していました。バトンは渡すのではなく、次の走者の手に当てるようにする、そして、必ず声をかける。そうしないと落す可能性がある。

 スターターがピストルを掲げ、左手で耳に栓をします。計時係に発煙が見えるようピストルの背景に黒板が当てられます。位置について、用意。

 リレーが始まりました。前の走者が近づいてきます。走り出しながらバトンを受ける手を後ろに差しだします。「ハイ!」。声ととも伝わる軽い衝撃。右手でつかんだバトンを走るフォームの流れに沿って左手に持ち替える。後は何も考えずに全力で走ったそうです。

 結果は2位でしたが、彼女にとっては自分が走った区間で誰にも抜かれなかったことが大きかったようです。もちろん、前に走った人たちのリードもあったでしょう。でも、少なくとも自分は順位を下げなかった。「自分のせいで」クラスが負けることはなかったのです。

 人並みの速度で走れるだけで、それが特長というわけではない。けれども、何も得ることがなかったような中学時代の運動部でのがんばりが降ってわいたようなその日の結果につながっていた。幼稚園児から高校3年生へ。12年ほどでしょうか。忘れてきたものが長い年月をかけて届いたように感じたそうです。

 長い長いムダ話でした。

 この本には以下、5つの短編が収録されています。「沙羅の実」「君の歌」「雪の糸」「おとなりの」「野バラの庭へ」。

 「隠していたわけじゃない。自分が目にしたものがなんだったのか、そいつもわかってなかったんだ。」(「君の歌」p.73)

 5つのお話それぞれで、過去が形を変え、意味を変え、現在へ反射してきます。

 「ええ、そう。消印の押されてない手紙の出来上がり」(「野バラの庭へ」p.226)

 郵便の比喩を使うなら、配達人は幾人にものぼる。その中には経過した時間のときどきに顔を見せるその瞬間の宛先人自身も含まれるのかもしれない。

 「誰が、そばにいるか。誰と知り合えるか。巡り会えた縁をどんなふうに育めるか。」(「おとなりの」p.167)

 反射の比喩を使うなら、忘れ物が届くまでに光を曲げつづけたスライドや鏡があったはず。そのどれが欠けても忘れ物を受け取った宛先自身が現在のそれと違ったものになってしまっていた可能性もある。

 「先の読めない物語でも

  行ける未来は ただひとつ」(熊木杏里「一千一秒」)

 そう考えると、何も得るものがなく体を壊しただけの頑張りも、未来に同じクラスになった人たちに失望を与えないという物語を届けるための鏡の一枚だったのかもしれない。

 そして、届けられる忘れ物には消印がついていない。つまり、いつ発送されるのかも、いつ到着するのかも分からない。でも、複数の可能性の中から確定されるのは「ただひとつ」。

 悩める中高生に贈りたい本、だなと思います。彼女の逸話を添えて。