宇田智子『本屋になりたい』ちくまプリマー新書

 宇田智子さんのことを初めて知ったのは『那覇の市場で古本屋ひょっこり始めた〈ウララ〉の日々』(ボーダーインク刊)でのことでした。書影の写真が『かもめ食堂』など飯島奈美さんのご飯が出てくる雰囲気を醸し出していてとても気になりました。読んでみると、文章が全く騒々しくなく落ち着いていて、この人のつづる文をずっと読んでいたい、そう思えるものでした。なので、新刊が出ると知って心待ちにしていました。

 『本屋になりたい』という題名を見た時から、私は違和感を持っていました。それは宇田さんの経歴のためです。

 『那覇の市場で~』を読んでいた私は、宇田さんがかつて大手の書店に勤めており、那覇支店開店にともなって希望して異動してきたことを知っていました。つまり、古書店の主となる前も書店で働いていたのです。それにも関わらず題名が『本屋になりたい』では、まるで書店員時代の自分が「本屋」ではなかったと思っているようです。

 「入社してからまもなく十年。店の広さに本の量、お客さまと従業員の数が、だんだん手に余ってきた。なのに把握しているふりをして立ちまわることに疲れてしまった。仕事は楽しいのに、苦しい。」(『那覇の市場で古本屋』p.51)

 その大手書店を辞めるにいたった理由も『那覇の市場で古本屋』中でも明言されていなかったと記憶しています。ここで私はある1冊の本のことを思い出します。

 『書店員が本当に売りたかった本』(飛鳥新社刊)という本です。ジュンク堂書店新宿店の閉店に際して行われたフェアの本です。この題名も考えさせられます。逆に言えば、閉店するという事情でもなければ、書店員は「本当に売りたい本」を通常営業の中で売ることが出来ない環境にあることを示唆しているためです。

 『本屋になりたい』の本文中には固有名として一度もあがっていませんでしたが、裏の見返しの著者プロフィールには書かれていますし、『那覇の市場で古本屋』ではハッキリと書かれていたので差し支えないと思いますが、宇田さんが勤めていた大手書店とはジュンク堂書店です。

 ジュンク堂と言えば、田口久美子さんのどの著書だったかに次のような主旨のことが書かれていました。『プロ倫』(マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の業界内での略称)の岩波文庫版を社会学の棚に置けば売れることは誰だって分かっている。けれど、単行本が並ぶ各ジャンルの棚に文庫は文庫で陳列されるのが常の書店が入れ込むのは在庫管理上手間がかかるため、折り合いをつけて行わない、と。だから、日経BPから出ている『資本論』がマルクスの棚に並んでいる一方で、岩波文庫版は並んでいない、という棚が現出するわけです。

 更にここで私はまた別の本のことも思い出します。内沼晋太郎さんの『本の逆襲』です。

 「本の『何を』守りたいのか、『どこが』なくなってほしくないのか」(『本の逆襲』p.45)

 内沼さんは従来「本」と呼んできたものの再考を迫ります。そして、その軛から解き放たれるなら、出版業界の未来は暗くても、「本」の未来は明るいと言います。

 もしかしたら、宇田さんは新刊書店で扱う「本」と呼ばれているものと自分にとっての「本」に齟齬を感じていたのかもしれない。だから、自分が守りたいもの、なくなってほしくないものを含んだものとして「本」を捉え扱う「本屋」になりたかったのかもしれない。

 「絶版になった本や限定販売の本の多さに、新刊書店の限界を感じていました。古本屋なら、なんでも置ける。」(p.20)

 それはこんな想いに支えられているようです。

 「何かしたいと思っている人を、本を売ることで応援したい」(p.16)

 本は読まれるもの、使われるものだということがどこかで置き去りにされていないでしょうか。

 「古本屋になってからは、『仕掛け』という単語も忘れていました。」(p.73)

 関心があるのは、購買意欲を煽って売上をあげるところ「まで」。では、その後は?

 「本は好きだけれど、好きではない本もたくさんあります。でも、そんな本もひっくるめて、気になります。どんな人がこの本を読むのだろう。」(pp.195-196)

 宇田さんの関心はきっと「その後」まである。その本に関わる人のことが気になる。ランガナタンの5法則が自然と思い出されます。(以下は記憶による引用で正確ではありません。)

 1.本は利用するためのものである

 2.全ての人にその本を

 3.全ての本にその人を

 4.読者の時間を節約せよ

 5.図書館は成長する有機体である

 「本を通じて人の役に立ちたいという気持ちは、書店も図書館もきっと同じです。」(p.147)