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イエラ・レップマン『子どもの本は世界の架け橋』こぐま社

 最近読んだ本の中でこの本を知りました。最初は歌代幸子さんの『一冊の本をあなたに』(現代企画室刊)。IBBY(国際児童図書評議会)設立に尽力した女性の自伝ということでこの本について触れられていました。

 「あなたが本を送ってくれるよう頼もうとしている国の大半は、半年前までドイツと戦争をしていました。おそらく今だって、好意的ではないでしょう!あなたは、本当に、それらの国の人々が、すすんで本を送ってくれると信じているのですか?」(p.55)

 歌代さんの本の中では、本を送ってくれるようレップマンさんが依頼した際、ただ1国ベルギーが断ってきたことに触れられています。そして、それではいけないとレップマンさんが再度お願いした流れが書かれています。

 「私たちは二度もドイツに侵略されました。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(p.70)

 歌代さんの記述を読んでいて私が感じたのは、子どものために本が必要だという気持ちは分かるけれども、二度も侵略されたと言っている国の心情を慮る姿勢の弱さでした。ただ、それは省かれている部分があるためにそう感じるだけで、実際はちがうのかもしれないと留保をつけて受け止めていました。

 「この戦争の責任は、子どもたちにはありません。子どもたちへの本は、最初の平和の使者となることでしょう!」(p.58)

 次にこの本に出会ったのは、末盛千枝子さんの『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』の中でした。この本でも同じくベルギーに断られれるくだりに触れられています。そして、末盛さんの本の中では、レップマンさんの再依頼にベルギーが舐めた辛酸に対する共感とでも呼べるものを感じました。少なくとも、正しいことなのだから協力しないなんてなんてことだ、という高圧的なものは感じられませんでした。

 では、本当のところはどうなのか。いずれの本の元となっているであろうこの本を読んでも正直言って結論はでませんでした。

 「君は、六年近くいつドイツの爆弾で殺されてもおかしくなかったんだぞ。それでもまだ足りないのか。」(p.23)

 イエラ・レップマン自身、ユダヤの家系に生まれ、ヒトラー政権下で他国への亡命を余儀なくされています。ベルギーからの返事にあったような苦しみは彼女自身がきっと身を持って体験していたのだと思います。それにも関わらず、子どもたちに責任はないとし、未来の平和のために本を必要とする。本、教育といったものへのゆるぎない信頼、その強さはどこから来るのだろうと思います。

 「この混乱した世界を正常に戻すために、まず子どもたちからはじめさせてください。そうすれば、子どもたちはおとなに道を示してくれるでしょう。」(p.53)

 「私たちは、子どもたちを再び若いナチやファシストに育ててはいけません。私たちは、彼らに精神の糧も送らなければならないのです。」(p.157)

 アドルノという哲学者は「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と言ったそうです。また、東日本大震災の後、移動図書館で人々に本へのアクセスを保障しようとした鎌倉幸子さんの『走れ!移動図書館』という本でも「今はまだ本ではないのではないか」という逡巡する姿が描かれていました。

 そういった考えや想いとは対照的にまずは本だ、とする信念はともすると盲信と紙一重なのかもしれない、そう思う部分があるからレップマンさんが成し遂げたことを素晴らしいことだと思う一方で、危なかっしさも感じてしまうのかもしれません。

 「なぜ人は、今もって、理性によって政治を行うことができないのでしょうか?」(p.124)

 私自身、知識と暴力を対局にあるものと思い込んでいます。暴力とはどこか原始的、野蛮なものであり、知識が増えること、つまり教育が進むことで抑止されるものであると。でも、争いが起こるのは知識がないからなのでしょうか。理性が足りないからなのでしょうか。十分に知識を兼ね備えて物事を理性的に判断できるがゆえに、却って戦争を引き起こすという側面があるとしたら。

 レップマンさんが言うように本は子どもの精神の糧になるのでしょう。そして、子どもたちを救うことは「正常な世界」への道でもあるのだと思います。

 でも、私はこの本を読みながら何かトゲのようなものが刺さっている感じをずっと受けていました。それは私自身、信じている本(や知識)というものが上に書いたような可能性ももっていることが常に心のどこかに引っかかっていたからだと思います。