加納朋子『トオリヌケキンシ』文藝春秋

 トオリヌケキンシとシンニュウキンシは違う。入っていくことは禁じられていない。

 この本には以下のお話が収録されています。「トオリヌケ キンシ」「平穏で平凡で、幸運な人生」「空蝉」「フー・アー・ユー?」「座敷童と兎と亀と」「この出口の無い、閉ざされた部屋で」

 むかし、加納朋子さんの別の本を読んでいたとき、それを見た母親に言われたことがあります。「やさしい顔をしている。やわらかい話が好きなんだね。」フィクションの中のやさしさを好むのではなく、現実の厳しさ辛さをもう少し受け止める姿勢の方がいいのでは、という批判を暗に含む言葉でした。

 「優しくいることが間違っていても/こうしていたいの」(南壽あさ子「フランネル」)

 この『トオリヌケキンシ』に収められている短編もいずれもご都合主義と言ってしまえる展開を見せます。現実にはもっと悲惨な展開もあるでしょ、いやお話の中だってありえる。こういった展開をするお話を好むなんて弱いからじゃないの、という批判だって招きよせそうです。

 「かくも世界とは、不平等で不合理に満ちている。」(「この出口の無い、閉ざされた部屋で」p.253)

 でも、そうした厳しさを知っていて、どんな人間にも必ず訪れる例の「もの」が不平等に襲ってくることを知っていて、それでもなお優しくある、救いを描けるというのはどういうことなのでしょう。

 「もし人類すべてが同様であったなら、それは特に異常と呼ばれることもなく、世界がそういうものとして認識されていたでしょうね。」(「平穏で平凡で、幸運な人生」p.45)

 ここで言われる「人類すべてが同様で」ある世界はロイス・ローリーという人のある本で描かれています。そこではここで異常と呼ばれているものが普通であり、逆に普通であるものが特異な存在となっていました。

 この短編集にはそれぞれ事情を抱えた人が登場します。何かが欠けている人、特殊な能力がある人。そのそれぞれの人に救いが訪れる、だれかの救いとなることができたのは、人と人のつながりの中にあったからだと思います。それはSNSやアドレス帳に載っている友人といった数の多寡によるものではなく、その人のことを知ろうという付き合い方の質のようなものによってもたらされたもの。

 「ただ通り抜けたいだけなら、それは駄目。」(「トオリヌケ キンシ」p.12)

 ある場所を通り抜けるとき、その場所のことは目に入らない。少なくともじっくり見よう、知ろうとはしない。ただ流れていくだけ。

 「お友だちでお客さんなら話は別。」(「トオリヌケ キンシ」p.12)

 他人から秀でることには役に立たないけれど、他の人には見えないものが見えることの意味を教えてくれる「平穏で平凡で、幸運な人生」。他の人には普通にできることができないけれど、逆にそのできないことで見分けがつくようになることもあると示してくれる「フー・アー・ユー」。

 そんなお話を書けるのは、著者が他者の人生にある諸事情を通り抜けることなく受けとめて咀嚼しているからだと思わせられます。そして、小説自体と著者自身を同一視してはいけないという考えがあることを知りながらも、著者が可能性として起こり得た未来について自分の大切な人のことを案じているように受け取れる「座敷童と兎と亀と」。この話数に潜んでいるように感じられる、残される者を心配する気持ちは痛切です。

 別々に掲載された短編集なので、全体としてそういう構成・思惑があったのかは分かりませんが、「座敷童と~」までを読んで、では著者自身は自分についてどう思っているのだろうと知らず知らず考えていました。

 最後に配置された「この出口の無い、閉ざされた部屋で」は優しくあったり、救いを描けるのは甘いからではないことを教えてくれます。絶望、失望、人生における負の側面なんて、十分知っている。「空蝉」に登場する男の子がその明るさとは裏腹な過去を抱えているように。そして、それに長い時間をかけて向き合った。

 ここで七河迦南さんの本からエンデの言葉を引くこともできます。

 「『希望というものはもともと、『物事がそうだから』持つ、というものではなく、『そうであるにもかかわらず』持つものだ」(『アルバトロスは羽ばたかない』「ハナミズキの咲く頃」p.58)

 でも、ここでは木皿泉さんの言葉を引こうと思います。

 「何かに身をゆだねたいのに、そうすることができない。だったら、最初から嘘とわかっているものに、この身を預けるしかないのではないか。」(『木皿食堂』双葉社刊 p.11)

 救いを与えるためにつく嘘、救いがあると信じるために敢えて騙される嘘。著者と読者の共犯関係が成立するとしたら、『トオリヌケ キンシ』を読者は通り抜けてはいない。

 「一度でいい、愛の告白ってものをしてみたかったの。」(「この出口の無い、閉ざされた部屋で」p.251)

 最後に置かれた短編を読んでいると、この『トオリヌケ キンシ』自体が著者の葛藤と闘いの告白であり、自分自身の大切な人たちへ向けた愛の告白であったのだと強く感じます。