詩:長田弘、絵:いせひでこ『最初の質問』講談社

 「今日、あなたは空を見上げましたか。」

 これがこの絵本に最初に書かれている質問です。以下、いせひでこさんの淡い絵を背景に、時には協働し、時には言葉の方が背景に退きながら質問が続いていきます。

 「問いと答えと、いまあなたにとって必要なのはどっちですか。」

 この絵本に「答え」は書かれていません。でも、「答え」は存在します。読者の中に。

 この絵本を読んでいると私はアルチュセールという人についての説明の中で聞いたことを思い出します。人が「おい、お前」と呼ばれて振り返るとき、もう既に呼ばれて振り返るという連関の中に入ってしまっている。

 ある質問を読んでそれを口に出すか書き記すかは別にして、自分の答えを想起してしまうことも同じように予め決まっている関係性からは逃れられていないことを示していると思います。もしも、自分の答えを考えないまま過ぎていくことができる人がいるとしたら、そんな人こそその関係性から逃れていると言えるのだと思います。

 「街路樹の木の名を知っていますか。」

 「好きな花を七つ、あげられますか。」

 レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』に道を歩きながら目にするものの名前を知っていることよりも、それらを感じることのほうが遥かに重要だという主旨の箇所があります。私はそれを免罪符のように自分に都合のよいように解釈して、植物や動物の名前を知らないことを特に恥じてはきませんでした。上に引用した2つの質問に対する私の答えはいずれも「いいえ」です。

 そもそも、花の名前を7つも知っているかどうかも怪しい。ひまわり、朝顔、紫陽花、たんぽぽ、サルビアマリーゴールド、ガーベラ、牡丹、フリージアスノードロップ、菊、しゃくなげ、、言葉として知っていても実物を思い描けないものが殆どです。

 こういったことは改めて問われてみないと気づけない。

 「いちばんしたいことはなにですか。」

 あれも嫌、これも嫌、嫌なことキライなことを感じながら毎日を過ごしています。でも、その嫌いなものの反対が好きなものかというと必ずしもそうではない。自分の好きなものが何なのかさえ分からなくなっている。

 この絵本の最後の質問に私は「はい」と答える自信がありませんでした。でも、ここまで感想を書きながら、少なくとも私は自分自身の答えを考えながら読んでいた、問われれば答えるというルールには則っていたことに気づきました。

 最後の質問で問われている内容を考えたとき、そのルールに従っていたこと自体が「はい/いいえ」と答えるまでもなく、質問への回答となっていたのだと思います。

 とても陳腐な表現になりますが、折に触れて読み返したい絵本です。