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新川直司『四月は君の嘘』11巻 講談社

マンガの感想

 「君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ」(中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」)

 国語の時間に『枕草子』を習うため、「四月は君の嘘」というフレーズを見た瞬間から「がをかし(がよい、が趣深い)」とほぼ自動的に補って認識してしまっていました。でも、この最終巻を読んだ後、「四月は君の嘘」のうしろに無意識に補ってしまう言葉は違ったものになっていました。

 「友人A君を私の伴奏者に任命します」(p.154)

 先日、あるグループの中でピアノを弾けるのが特徴の女性が他のメンバーの歌唱を伴奏した後で「また(そのメンバーの)伴奏がしたい」という発言をしているのを見ました。ピアノを専攻している人としてそれは優しすぎるのではないかと私は素朴に思いました。目指すべきは他人の伴奏ではなくてソリスト(ピアニストの場合もそう呼ぶのか自信がありませんが)、少なくとも心意気として主役を張ると言い切れる必要があるのではないか。

 でも、それと同時に「伴奏をしたい」という気持ち、感じ方を否定できないというか、否定したくない、とも思いました。

 「これがあの ヒューマンメトロノーム?」(p.125)

 コンクールでの演奏前、主人公は失おうとするものの大きさの前に自分を失っています。

 「ひっちょ」(p.83)

 そんな彼を物理的には会場のステージ上、抽象的には彼自身へと引き戻したのはコンクールと言う状況には不釣り合いな日常を象徴するものでした。そして気づきます。

 メトロノームという揶揄を払拭する彩を彼の演奏に与えたのは他者の存在。ひとりじゃない、自分の中にこれまで出会った人たちがいる、とりわけ「君」がいるという認識は文字通りモノ(単一)クロームではなく、カラフル(多彩)へと繋がります。

 伴奏をしたい、という感じ方には他者の存在が含まれている。誰かと一緒にいたい、伴に時を過ごしたいという婉曲表現なのかもしれない。だから、目指すべきところはそこじゃないだろ、と思ってしまいながらも、彼女の伴奏対象への気持ちが良く表れている言葉としていい言葉だと感じるのだと思います。素敵だと感じるのだと思います。

 「また夏がくる」(Lia「青空」)

 めぐる季節を「また」と感じる中で思い出すことに含まれる存在。

 「きっと季節があなたと違うだけ」(熊木杏里「羽」)

 四月は君の嘘(を思い出す季節)。それは主人公である彼の季節となったのでしょうか。

 「永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと」(中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」)

 嘘の「たねあかし」が許されるのは旅が終わった後かもしれません。

 この巻の帯には次のセリフが採られています。

 「そして、一つだけ嘘をつきました。」