たなかのか『すみっこの空さん』7巻 マッグガーデン

 この巻には「ちょうわ」「さくりゃく」「プレゼント」「ひみつ」「ちゅうしん」「えんきんほう」「あした」が収録されています。

 「誰も聴いてないのに歌うことって意味あるのか―?」(「ちゅうしん」p.109)

 何もない町の駅前で歌う青年について空さんのイトコの口をついて出た言葉。私は中学の音楽の時間を思い出していました。

 先生はピアノでみんなの歌の伴奏をしています。間違えたり問題があると伴奏は止まります。注意やアドバイスの後、歌は再び始まります。先生がピアノを弾き始めたのはいつだったのだろう、どういったきっかけだったのだろう。コンクールや聞く人に対して弾くことは今までどのくらいあったのだろう。今は私たちに教えるために弾いている、私たちはピアノに合わせて歌っているけれど、先生の演奏を聴いているわけではない。音楽の先生だから、学校に一人(当時私の通っていた学校は今のように芸術科の先生が複数の学校を兼務する方式ではありませんでした)。ピアノを弾く時間は相当なものなのに、それを「聴いている」人は殆どいない。誰かに聴かせるために、自分のためにピアノを弾く機会は先生にあるのだろうか。

 「誰も聞いてくれない言葉を紡ぐ夕ちゃん自身の姿に重なるのです」(「ちゅうしん」p.110)

 伝えたい(聞いて欲しい)ことがあって、それが伝わる(聞いてもらえる)ことがコミュニケーションの成立で、その方法がメディアなら、最初からコミュニケーションを前提としないメディアは同じメディアであっても虚しさを生むのかもしれない。

 「えんきんほう」という話数では、そのイトコの同級生が再登場しています。彼女は通っている絵画教室の先生に片想いをしています。

 「自分から遠いものほど・・・消失点に向かって小さくなっていく」(「えんきんほう」p.140)

 告白すら「大人」のやり方でさせてもらえず、出口を失った自分の気持ちを持て余す彼女は、空さんとの会話で折り合いのつけ方に気づきます。

 遠近法では遠いものほど小さくなっていく。でも、どれだけ消失点に近づいても消えてしまうわけではない。消失点自体が本当は最初から存在しないポイント。認識の中で措定された中心。

 「ずっと絵を描き続けよう」(「えんきんほう」p.150)

自分にできることをし続けること。それが気持ちを表す方法になることもある。

そういえば、柴田淳さんがこう歌っていました。

 「それができないから こうして歌っている」(柴田淳「夜の海に立ち」)

空さんは駅前で歌うお兄さんに問いかけます。

 「どうしてだれもきいてないのに歌っているんですか?」(「ちゅうしん」p.116)

お兄さんの答えは空さんのイトコであるお嬢さんの悩みに出口を与えます。

 「切り取られた佇まいが地球に見える」(「ちゅうしん」pp.120-121)

金沢にある21世紀美術館ジェームズ・タレルという方の「ブルー・プラネット・スカイ」という作品があります。上に引用したセリフが書かれている見開きページの「地球」はその作品を思い出させます。

 最近、鈴木康広さんの『近所の地球』(青幻舎刊)という作品集が刊行されました。以前の『まばたきとはばたき』がとても良かったので買おうと思いつつもまだ手にいれていないのですが、グローバル(global)と言ってしまうとどうして自分には届かない遠いところのように感じるのでしょうか。あそこもそこも、そしてココも間違いなく地球なのに。

 「汚れなく笑えた昨日より 傷つくこと知ってる今が好き」(谷村有美「今が好き」)

 自己満足、自慰行為と揶揄される可能性もあるけれど、今ここで自分にできることをし続けることも地球的(グローバル)かもしれない。それには、今ココも地球であるという認識が必要だけれども。

 「でも自分だけが 最後の羅針盤」(熊木杏里「最後の羅針盤」)

 受け入れられなかった恋心も、聞いてもらえない言葉も、自分の一部だから、今ココが自分だから、自分が自分であるためにやり続けることがある。

 「あなたも あなただけにできる何かを ひとつのことを あなたらしく ただひたすら やり続ければいい」(南壽あさ子「歌うことだけ」)