岩永亮太郎『パンプキン・シザーズ』19巻 講談社

「そう、敵も人間なんですよね。だからちゃんとモノを考えて反応してくれるはずです。」(『機動戦艦ナデシコ』第20話「深く静に『戦闘』せよ」)

 

 この巻の中で主人公側は圧倒的技術差を誇る敵の強力兵器を3輌撃破します。難攻不落と思われた兵器が破壊された理由を敵側は兵器自体ではなく、それを扱う人間に見ています。

 「つまりグラフィアスを撃破した奴は 抗・帝国軍を頑なまでに"人間"として見ている奴らだ」(「Interval」)

 To err is human, to forgive divine. でしょうか。

 

 「お嬢ちゃん、知ってしまうともう後戻りはできません。」(『セクシーボイス・アンド・ロボ』第1話「三日坊主」)

 今、ピーター・W・シンガーのWired for War(邦訳『ロボット兵士の戦争』NHK出版刊)を読んでいるのですが、その中に戦争についてパラダイムシフトのようなものが起こることに触れている箇所があります。また、同じ技術を使っても指針(本文中ではdoctrineという言葉が使われています)の違いによって結果が変わることを第1次大戦後の戦車を例にフランスとドイツを対照して説明されてもいます。

 「人はミルクを加える前の紅茶(ストレート)を存分に讃えることができる・・・紅茶もミルクティーも等しく尊い しかしその世界において紅茶を味わうことはもうできない」(第96話)

 私は佐々木敦さんの『「4分33秒」論』を読んだ時に似たようなことを感じさせられたのを思い出していました。

 ジョン・ケージによる『4分33秒』は4分33秒の間、何も演奏がされない「曲」です。でも、無音、サイレンスかと言えばそうでもない。演奏される場所、演者の構成、聴衆など何かが存在する場所は完全に無音にはならないでしょう。そういう意味ではサイト・スペシフィックな芸術なのかもしれない。

 そんな『4分33秒』にも初演がありました。初演を「聴いた」人たちは、それが『4分33秒』だといつの時点で認識できたのでしょうか。ピアニストが登場しピアノの前につく。でも、何も始まらない。何かの事故か、何が起きているのか。ピアニストが去りしばらくして初めてこれが『4分33秒』だと気づくのかもしれない。

 『4分33秒』がそういう「曲」だと知れた後では、もう誰も初演を聴いた人が聴いた『4分33秒』を「聴く」ことができない。

 新しいものと古いものは共存するのかもしれないけれど、その古いものはもう同じではない。姿形が何も変わっていなくても。

 読みながら以上のようなことを思い出した巻でした。