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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』群像社

 「一度ならずわたしは警告された(ことに男性の作家たちから)。『女たちは、あんたにいろんな作り話をするぜ。好きなように作り事を話して聞かせるよ』だが、あんなことを空想でつくりだせるものだろうか?」(p.20)

 ジョアナ・ラスという人に『テクスチャル・ハラスメント』(インスクリプト刊)という本があります。書き手が女性である場合にその性別を理由にいやがらせを受けることを扱っています。戦争体験の語り手としても、女性は男性よりも劣るものと見做されるのでしょうか。

 「わたしたちが戦争について知っていることは全て『男の言葉』で語られていた。」(p.14)

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはそんな沈黙させられた「女」の言葉を丹念に聞き取っていきます。

 「戦争では教師は不要です、必要なのは兵隊。」(p.91)

 「捕虜を殴れなかった。相手がまったくの無防備だという理由だけでも。こういうことは一人一人が自分で判断したこと、そしてそれは大事なことだったの。」(p.193)

 「勝利のあとの死、これは一番恐ろしい死よ。二重の死なの。」(p.263)

 本当は憎むべき相手、敵兵。でも、目の前で負傷しているのを見ると憎しみきることができないときもある。

 「ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない。自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。」(p.378)

 思い出すのは辛いこと。それでも、思い出し語るのは何故なのか。

 「思い出すのは恐ろしいことだけど、思い出さないってことほど恐ろしいことはないからね」(p.152)

 著者アレクシエーヴィチは以下のように考えています。

 「回顧とは、起きたことを、そしてあとかたもなく消えた現実を冷静に語り直すということではなく、時間を戻して、過去を新たに生み直すこと。語る人たちは、同時に創造し、自分の人生を『書いて』いる。『書き加え』たり『書き直し』たりもする。」(p.15)

 体験者から聞き取りを行ったインタビュー集なので、語り手の名前と戦時中の役割が最初に書いてあり、その後に語った内容がつづられています。白状すると、カタカナで表記されたそれら個人の名前を殆ど個々のものとして識別できずに私は読んでいました。逆にそのことから、同じ一人の人の色々な側面を読んでいるような錯覚を感じもしたのですが、ひとりひとりの語り手に対して誠実さに欠ける読み方だったと思います。

 私はこの本を読みながら、誰のどんな「顔」を見ていたのだろう。あるいは見ていなかったのだろう。

 「あたしたちが死んだあとは何が残るんでしょう?あたしたちが生きているうちに訊いておいて。あたしたちがいなくなってから作り事をいわないで。今のうちに訊いてちょうだい。」(p.41)