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シェリ・フィンク『手術の前に死んでくれたら:ボスニア戦争病院36カ月の記録』アスペクト

 先日、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』という本を読みました。その中で原爆が投下された直後、広島にいたある医師の行動を記している部分があります。現在は平成27年。終戦70年を迎えます。そんな平時でも医師不足が聞かれ、「立ち去り型サボタージュ」という言葉を聞くこともあります。当時の広島では原爆によってほとんどの市民が死傷したといいます。医療従事者も例外ではなく、「殺された」ことによって人手が足りない、それなのに手当が必要な人はキリがない。また、医師という職業が持つ社会的イメージのためか、人に頼られている印象もありました。

 この本のことは以前、どこかの書店で見かけて存在は知っていました。日本では、あの戦争以来、戦争は起こっていません。でも世界の色々なところでは戦争が起こっている。その現場では困難な状況の前に耐えて立ち続けている『ヒロシマ』で書かれた医師のような人がいるのではないか、そんなことを思い読んでみることにしました。好奇心の種類としては卑しいものです。

 「『人道主義』という言葉に、エリックは吐き気をもよおす。水浸しの部屋に入ったら、最初にするのはモップをかけることではなく、蛇口を閉めることだろう。これほど単純明快なロジックはない。」(p.129)

 『手術の前に死んでくれたら』という題名からは、理想主義に燃える医師が自分の力ではどうにもできない死に触れ続ける内、自責の念に耐えられなくなった姿を連想します。でも、この本に書かれていたのは、そういった種類の葛藤ではありませんでした。

 「どうしてわたしたちだけ、働かなければならないの」「わたしたちだって結局は、みんな死んでしまうんでしょ」(p.161)

 戦争の中で殺す側と殺される側がいて、医療従事者は第三者として殺される側を助ける、という単純な構図ではない。病院も医師も看護師も標的となる。第三者としてではなく、当事者としてその戦争の中に組み込まれている。

 「渡されたのはイタリア製のベレッタ7・2、小型拳銃だった。いざというとき自分と自分の患者を守るために、それ以来、拳銃は肌身離さなかった。」(p.77)

 どうやって生き残っていくのか、この本には戦争に巻き込まれてしまった人間の闘いが書かれています。

 「だれかがぼくを殺そうとしている。ぼくを知らないだれか、ぼくを見たこともないだれかが、ぼくを殺そうとしている。そいつはぼくを憎んでいる。理由もなく憎んでいる。ぼくを知らないのに憎んでいるんだ。」(p.71)

 この本で描かれている戦争について重要な局面で関係したであろう2人の日本人の名前が複数回登場しています。緒方貞子さんと明石康さんです。また、当時国連軍としてオランダ軍が現場にいたことも記述から分かります。

 「NATO軍機が一発の爆弾も投下せず、国連軍セルビア側に一発も銃撃しないまま、スレブレニツァは陥落した。」(p.309)

 この本はスレブレニツァという現地の視点で書かれており、外部でどういった情報が行き交い、どういった駆け引きがあり、判断決定が下されたのかという細部は分かりません。しかし、この本を最初から読んできた果てに上に引用した一文を読むと湧き上がってくるのは、スレブレニツァは世界から見捨てられた、という思いです。

 そういった思いは怒りや恨みへと転じることもありえると思います。

 「あなただって怒ることがあるでしょ。こんなことをする奴らに対して、怒りを覚えることがあるでしょ」(p.183)

 でも、戦争が起こる原因がこの本に登場するある人物の考える通りなら、

 「戦争というものが起きるのは、権力に飢える政治家たちが慎重に企て、人々の心のなかに闘争本能をかき立てていくからだ」「戦争遂行に加担する者はだれでも、だまされ操られている。この苦しむ者が即ち、敗者なのだ。」(p.212)

 「こんなことをする奴ら」を見誤るとその怒りさえも操られてしまうかもしれない。こんな呑気なことを考えていられるのは、お花畑と言われることもある平和ボケのせいかもしれない。

 「暴力の吹き荒れる状況にいて耐えられるのは、以前にもそうしたところにいた経験があるからです」(p.222)

 それでも、耐性をつけるために戦争が必要だと論理を展開するのは間違っていると思います。

 

 最後に、『エネミーライン』という映画を観たこともあり、米澤穂信さんの『さよなら妖精』を読んだこともあり、木村元彦さんの著書も読んだことがありながら、それらの内容を忘れ、それぞれがこの『手術の前に死んでくれたら』と繋がっていることに読みおわるまで気づかなかった自分のことを恥じます。