岩城けい『さようなら、オレンジ』筑摩書房

 「ここには見たことのない光景が広がっていた。人という人は穏やかな日常を送り、耳慣れない言葉を話していた。サリマたちは政府の難民受け入れに従った。」(p.5)

 このお話はサリマの視点で始まります。夫と2人の子どもを抱え異国の地で新しい生活を送ろうとする女性、のように見えます。夫からは女性だからと蔑まれ、英語を習得する語学学校では中々次のステップに進めません。やがって、夫は出ていき1人で子どもを育てることになります。

 そんな中、サリマは語学学校でハリネズミと呼んでいる日本人女性に出会います。サリマ視点で書かれる部分とハリネズミがジョーンズ先生へ宛てた書簡の部分、そして数回だけ挿入されるハリネズミと呼ばれる女性と彼女の夫の連名によるEメール、この3パートによってこの本は成り立っています。

 読んでいて私は違和感を感じていました。それは、サリマによるハリネズミの捉え方が優しすぎるように思えたためです。

 「あんたにはがっこうのほうが似合う」(p.31)

 サリマとハリネズミが親しくなるのは学校内ではなく、同じ職場で働くようになったことがきっかけでした。難民としてこの国へ来たサリマに対して、夫の仕事についてきたハリネズミ。同じように母語で生活ができないとは言え、その境遇はサリマにしてみれば恵まれたものに見えなかったのでしょうか。もちろん、私の「難民」ということへの無知や偏見が反映された印象かもしれないのですが、それでも、彼女のハリネズミの捉え方が淡泊すぎるように感じられました。

 「自分のせいにしてすっかり自信を、自分自身をなくしたハリネズミ。この自分のために時間と労力を惜しまずさしだしてくれる、この大切な友人にこんどはサリマが力になりたかった。」(p.82)

 話は脱線しますが、私が好きなある女性歌手の方は初期の作品で「ぼく」という一人称をよく使われていました。女性である私がこう思う、ではなくて、男性である相手から見てそう見える自分を歌っている、あるいは女性である自分から見てそんな風に思ったり考えたりする男性であってほしいという願望がもしかしたら反映されているのでは、と勝手に思っていました。

 「そのきこえない声に耳を傾けることができる人間でありたいと思うのは、私自身も歳をとったせいでしょうか。」(p.147)

 『さようなら、オレンジ』を最後まで読んで思うのは、この本の中でずっと流れていた「きこえない声」は誰のもので何だったのだろう、ということです。それを考えたとき、サリマからみたハリネズミが描かれている部分を読んでいた時に違和感を感じた理由の可能性に思い当たります。

 「母語であっても読み書きができないと、不便どころか人間としての尊厳を奪われるのです。」(p.35)

 そして、それは「私」が意図したことではきっとないのだと思いますが、『さようなら、オレンジ』において「ナキチ」の尊厳はどうなるのだろう、という疑問が頭をよぎります。

 「ウォーフやらサピアやらにそれらの感情は拉致されて、ほとんど実生活には関係のない学問のしがない従者になることをみずから望んだのです。」(p.109)

 誰が何語で語っているのか、がこの本を流れるテーマの一つだとしたら、「私」の夫が言語学を専門にしていることがうかがえる上に引用した記述に登場する名前が「サピア=ウォーフ仮説」として知られる両者であることにあざとさを感じます。