アントワーヌ・ヴィトキーヌ『ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命』河出書房新社

 「刊行当時、『わが闘争』に対して際立った反発が見られなかったのは、内容への理解が足らなかったことよりも、国民が本当の意味での政治意識をもっていなかったことが原因である。」(p.277)

 著者であるアントワーヌ・ヴィトキーヌはジャーナリスト。この本は2008年に放映された「『わが闘争』―すべてはそこに書かれていた」というドキュメンタリー番組が元になっているそうです。

 最初にヒトラーナチスホロコーストに触れたのがいつだったのか覚えていません。学校の社会科で歴史を習ったのが小学校6年生の時だから、その頃かもしれない。あるいは、映画『インディージョーンズ』でハリソン・フォードナチスの集会だったかに成り行き上紛れ込むことになって、総統と鉢合わせしてしまい、お話のキーとなる手帳を諦めて手渡したところ、サインを求められたと思ったヒトラー?がそれにサインをして返してきただけですんだ、というシーンが最初かもしれません。

 いずれにしろ、ずっと持っていたイメージはヒトラーという一人の極悪人がいて、彼に騙された無垢の人たちによって非道なことが行われた、というものでした。ヒトラーさえいなければ、と今から考えればとてもナイーヴな認識です。

 「『わが闘争』はドイツ国民に対し、〈読まなかった罪〉そして〈わからなかった罪〉、この二つの罪をつきつける存在なのだ。いや、むしろ〈ある者は全文を、またある者は抜粋を読んでいたのに、そこに込められた意味を理解しなかった罪〉と言ったほうがいいかもしれない」(p.216)

 当時、ドイツの多くの人が『わが闘争』を読んでいた(だから単純に「騙された」というわけではない)と初めて聞いたのは、多分ペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』という本の紹介に際してだったと思います。「アイロニカルな没入」という言葉の本当の意味を知りませんが、その話題の中で出てきた用語だと記憶しています。

 「理解することはできた。読めばわかる。だが、認めようとしなかった」

 「何を認めなかったというんですか」

 「その先に起こるだろうことさ。想像できないから、そんなことはありえないと思った」(pp.88-89)

 先日、小坂井敏晶さんの『責任という虚構』という本を読みました。その中でナチスホロコーストについてとり上げられている箇所があります。断片的な言及になりますが、ハンナ・アーレントがアイヒマンに対して使った「陳腐な悪」という認識、クリストファー・ブラウニングの『普通の人びと』という本で扱われた「普通の人」による虐殺への加担、更にダニエル・ゴールドハーゲンの『普通のドイツ人とホロコースト』という書名が「普通の人」ではなく「普通のドイツ人」であることの含みなどから、責任の主体として告発される存在が議論されています。

 行為主体が特別な(逸脱した)存在だと思えれば、「普通」である自分たちに責任はないように考えることができます。でも、それを行ったのが「普通」の人たちであったなら、自分たちは違うと思えなくなる。

 年初、『関口宏サンデーモーニング』の特集が若干話題になっていました(私のtwitterのタイムライン上での印象です。)。私も偶然、その特集の箇所だけTVで見ていました。ミルグラムアイヒマン実験(『服従の心理』という本になっているものです)、ル・ボンの『群衆心理』を下敷きにして、話題になっている右傾化に警鐘を鳴らす体の番組構成だったと思います。途中、コメントを求められた姜尚中さんが初めは「ある女性哲学者(思想家だったかも)が」と名前を挙げずに「陳腐な悪」ということを言い、何げない日常の延長線上にホロコーストのような残虐な行為があるという主旨のことを言っていました。「ある女性哲学者」と言われても、この話の流れならハンナ・アーレント以外、ないわけです。(その後の部分で「アーレントは」と名前を出していました。)

 何が言いたいかというと、「この話題」が今俎上にあがっていると思った段階でスタンレー・ミルグラム、『服従の心理』、アイヒマン、スペシャリスト、アーレントなど人名やキーワードが集合であるように連想される、そういった意味では「知っている」のです。でも、同じような状況、もしかしたら、あの時と似ているんじゃないかと思ったり感じたりしたときに、その先を想像することができるのか。

 「フランス人エリートたちのほとんどはヒトラーの謀略にはまったというより、自分たちが平和を熱望するあまり、現実と向き合うことができなかったのである。だから、彼らはナチスの平和宣言を信じてしまった。」(p.131)

 『マーズアタック』というB級映画があります。地球に侵入してきた火星人たちは「逃げないで私たちは友人です」という言葉を拡声器で流し油断させて地球人を殺していきます。異星人なので「逃げないで私たちは友人です」という言葉の「意味」はきっと理解していない。ただ、それを使うと殺す対象の抵抗が弱まる、利便性からその言葉を使っている、そんな風に見えるシーンです。

 目的を遂げるために都合がいいなら、どんな二枚舌も使う。

 そして、この本には『わが闘争』の現在も書かれています。

 「もはや極右は極にあるのではなく、中央に進出してきた。いや、中心が極へと移ったのだろうか」(p.264)

 トルコでは『わが闘争』がベストセラーになりブームが起こったそうです。この本の第5章がそれに充てられていますが、日本の書店がいわゆるヘイト本を拡販することの是非が議論の的となる状況と重なってきます。

 一歩退いて、様々な情報チャンネルがある現在で一冊の本がそこまで強力な影響力を持てるのか、と考えてしまう一瞬もありますが、『わが闘争』が残した教訓の一つとして著者は次のように書かれています。

 「言葉には意味がある。言葉によって現実は変わるのだ。しかも、最悪の形で現実化することすらある。」(p.275)

 

 約8年前、私は『美しい国へ』という本を確かに読んでいます。でも、その内容を覚えていません。