読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

石黒浩『どうすれば「人」を創れるか』新潮文庫

 石黒浩さんはロボット工学者。自身にうりふたつのロボットを作りました。経年劣化と石黒さん自身が年齢を重ねたことでロボットと本人の姿形に乖離が生じてしまいます。そこで選択肢は二つ。ロボットを直す(ロボットを本人に近づける)か本人を「直す」か。

 「ジェミノイドの修理の手間や費用について考えてみると、実は私を修理する方がはるかに早くて安くすむことが明らかであった。」(p.202)

 この人変わっているな、という感触は上の引用箇所に至る過程でたくさんありました。例えば、ずっと同じ服を着ていること。文字通り一着をずっと着ているわけではなく、同じものを何着も持っていてそれを着回している。あるいは、先生は最近アンドロイドの方に似てきましたね、と学生に言われたときの受け止め方。

 人型ロボットを作るとき、まず人間があって型をとり造形をする。人間が主であってアンドロイドは従の関係のはず。でも、従のはずのロボットを範にして人間がそれに似ているかどうかが計られる、そういう認識が成立していく。

 ロボットに自分の容姿を似せるために美容整形も厭わない石黒さんの姿を目の当たりにしたとき、それまで読んできた文章に対して漠と抱いていた印象について恐ろしい可能性を直感的に感じました。

 文体もアンドロイドに似てきているのではないのか。

 石黒さんの本は随分前に『ロボットとは何か』講談社現代新書)を読んだことがあります。記憶をたぐっても石黒さんの文章がこういった雰囲気のものだったか思い出せません。この『どうすれば「人」を創れるか』を読む過程で受けていた印象は、ドラマやアニメでロボット視点で挿入されるナレーションの雰囲気とこの文章の空気感が似ているなということでした。

 この本にはある医療従事者(女性)を元にしたロボット、ジェミノイドFの話もたくさん書かれています。モデルとなった女性の話として、ジェミノイドFが自分の理想像となると紹介されています。

 視覚的に同じアンドロイドが存在することで、それがプラトンイデアのように作用するとしたら、認識の中で想定された中心、消失点へ向けて人間の書く文章も矯正される可能性はないのだろうか。

 「大人のニュースキャスターがテレビで戦争などの悲しいニュースを読むよりも、子供の姿形をしたコドモロイドが、そういった悲しいニュースを読むと、聞き流すことが難しくなる。」(p.280)

 石黒さんが口頭で話す場合、おそらく関西弁が混じっていると思います。でも、アンドロイドっぽい文体かどうかを置いておいても、文章を書くときは標準語になっている。石黒さんに限らず、一般の素人でも文語は標準語に引きずられる場合がほとんどだと思います。

 「私がプロジェクトに加わると、皆さんの創ったロボットを、いま持っている技術以上に有能に見せることができてしまいますが、それをやってもいいですか?」(p.284)

 文庫版の解説を平田オリザさんが書かれています。平田さんの話は確か『ロボットとは何か』でも出てきていて、心があるかどうかに関係なく心があるように演出で見せることはできる、と衝撃的です。本質に関わらず、見かけで本質が何かを想定させられる。演劇の場合は平田さんという演出家の意図が介入していますが、この本における石黒さんの文章からは、第三者(観察者)としての意図が入り込まずに半ば自動的にそれが起こるとしたら、と恐ろしさを感じました。